オリジナリティはたくさん積み上げた後にできる形
自分はバンドをやってて夢破れた、よくある典型的なタイプなのですが、
バンドをやってた折に見かけた人間たちを思い出し、
そして我が娘を見つめるときに、
「くれぐれも鍛錬を怠る人間になって欲しくないなー」
なんて考えるのです。
そして、「どうやって鍛錬の大切さを伝え、植え付け、習慣化していこう?」
などと大変余計なお世話を考えるのです。
なぜならバンドマンとかアーティスト気取りになるとかかる「中二病」があり、
そういうのは得てして楽な道だったりするのですが、
その楽な道にはまると、
せっかく先人が「若い時の苦労は買ってでもしろ」という金言を残してくれているのに、
楽するための口先の論理ばかりが達者になってしまうからです。
苦労せずに達者な論理ばかりの育ち方をすると、拗らせます。
どこかで間違いに気づく率よりも、
自分のそれまでを正当化するためにどんどん論理を固めて行って拗らせるのです。
そんな悪い道にはまらないように指導してあげたいのです。まぁ余計なお世話ですが。
どう拗らせるかと言うと、
「自分のオリジナリティに凝りだす」
これが良くありません。
この世にオリジナリティなんて基本ありません、存在しません。
全人類の0.5%程度が持つ卓越した表現力があるだけで、
残りの228%の人間たちはしっかり自己鍛錬をして学びを広げて繰り返し練習をしなくてはならないのです。
1032%くらいの人類がそうかもしれない。
一説には「どの道のプロになる人でも共通して、練習時間が1万時間を超えてる」
という統計があるそうです。
天才だ新星だと騒がれるアーティストたちは、自己鍛錬と苦労の果てにそこに立っているのです。
怖いのは、彼ら才能豊かな連中は、その鍛錬を苦労と思っていない所だったりします、
そんな彼らが、
「インスピレーションで作品ができました」
とかインタビューで語っちゃうと、またうちの娘のような生来ぐうたらな気質の人間なんかは、
(私の娘なので遺伝子的にそうなるのは間違いないです)、
「そうよね、インスピレーションよね、降ってくるのよね、外界の雑音をシャットアウトして、瞑想して、じっと自分の内奥のオリジナリティと向き合うべきなのよね」
とか楽な道をもっともらしく作っちゃうのです。
違うのです。
これをどのように諫めるべきか、日々考えてました。
「人間らしくありたいなんて、それは人間の台詞じゃないだろ、
僕らしくなくても僕は僕なんだ、君らしくなくても君は君なんだ」
とか、
日本語がわからないと文章を書けないだろ、オリジナリティなら言語から作るつもりなのか、とか
色々考えました。
先日読んだ「アート思考」という本の中ではこんな案内がされてました。
現代アートについては、目で見て感じるだけではない、その作者の思考、思想、時代背景、
そういう背景を理解して見ると、より多くの情報と理解が得られる、と。
これなんかは私、眼から鱗でした。
これまで、「音楽にしろ文学にしろマンガにしろ映画にしろ、沢山学んで自分の中にある知識が増すほど楽しめるし理解できるものなのだ」
と考えていたのに、
ことアート(美術)に関しては、
どこかで私は「絵画は目で見て感じる直感だけを楽しむべきなのである、解説文など蛇足である(読むけど)」
と、感受性のみで受け止めようとしていた節がありました。
何ででしょう?
バンドの演奏だって、Wikipedia で彼らの生い立ちやバンド内の人間関係を知ることで圧倒的に深みと面白味が増すのに。
…でも確かに楽曲に関しても「歌詞など読まずに、耳にだけ感じる刺激を受け取ればいいのだ」
と思ってる節が昔の私にはありました。
今でこそ、ググれば即Wikipedia に辿り着けるのですが、
20年前、海外バンド情報を得るには、雑誌や考察本を読まなきゃならなかったんですね。
その調査は難しく、面倒だった。
あとは大体、サークルのロックオタクの先輩から学ぶわけですよ。
そういう意味では、酒とタバコで得られる情報だけは得ていたのです。
明らかに楽してます、よね。
その理屈を文学やマンガに置き換えたら、どうなるでしょう?
日本語は読めるから文章は理解できます。
しかし歴史的な前提知識が無かったら、侍に対してやたらへりくだる商人のセリフと態度が理解できないかもしれません。
「ジョジョの奇妙な冒険」や「Queen」をまるで知らないとしたら、
「独身OLのすべて」という漫画の渾身のギャグの一部を一切理解できません。
もちろんジョジョを知らなくても「独身OLのすべて」は完成度の高いギャグ漫画で最高に楽しいのですが、
決め落ちを理解できない寂しさを背負わなくてはならないのです。
「ジョジョ落ち」はオリジナリティでしょうか?
芸術家志向の繊細バンドマン(含むシンガーソングライター)には、パロディなど許せないものかも知れません。
しかし繊細バンドマン(中二病)たちも、必ず、必ずオリジナルではないものを使い、それに寄り添い、構築してます。
例えばギター。
君たち、よもや楽器から手作りしてオリジナルな音を生み出すところにこだわったりしてないよね?
そこはいいの? オリジナルってそこから始まるんじゃないの?
じゃあまぁ楽器作るのは大変として、コードは?
楽器の和音とか、練習して弾けるようになったんじゃないの?
和音の合わせる音の組み合わせからして、自分のひらめきとオリジナリティで作ってなくて、
それでオリジナル楽曲にこだわるの?
だいたい全てのバンドマンの曲は、
初めてギターを触ったときに、試しに引いて見た「お気に入りの曲」に依拠してるのです。
それが、ある程度弾けるようになったあたりで中二病を患い、
「オリジナリティが大事だ」
「たくさん曲を聴いて勉強する必要などない、ぼくは僕の感性を形にすることにこだわるべきなんだ」
「てか練習めんどい」
こうなるわけですね。
そうなってしまったバンドマンになんと言えばいいのか…
娘がそうならないためになんと教えればいいのか…
個人的には、「オリジナルなものなど無いし、実のところ世間が求めてない」と言うところで、
自分は腹落ちしてるのですが、
若者たちと娘はまだその辺のキビが分かってないでしょう。
ちょっと積み木に例えて見ましょうか。
作品というのは、形、造形物なのである。
もし君が持っている積み木のブロックが、ほんのわずか、3個くらいしかなかったら、どうだろう?
積み上げて形にするにしても、圧倒的に限界があるだろう。
積み木が百個あったらどうか?
その百個の積み木を、面白い形に組み上げることこそ、「作品を作ること」なのだ。
その組み上げ方にこそ「オリジナリティ」は宿るのだ。
しかし、百個の積み木ブロックを手に入れるためには、弛まぬ鍛錬によって、「F」のコードとかテンションコードを獲得していかなくてはならないし、
先人の天才バンドマンが作り上げた驚きのアレンジと心揺さぶる歌詞のセンスを、
君の中でブロック化していかなくてはならないのだ。
ブロックを手に入れなければ、
たった3個のブロックで、
似たような曲を作るだけなのだ。
文章もそうである。
日本語を知らなければブログも小説も書けないのに、
どうして途中で学ぶのをやめて「良い」と思うのか。
稚拙な言葉のブロックしか持たない人間は、
稚拙な表現で稚拙な物語しか描けない。
人間は、自分の心の中に無いものをアウトプットすることはできないのだ。
積み木を組み合わせて作るには、積み木ブロックが無くてはいけないのだ。
究極のオリジナリティであるなら、
狼に育てられて人語を解さない少年か少女が、昔居たかもしれない。
その子は、ウォウウォウと遠吠えは残しただろう。
それはアートかもしれない。
でもそこまでだ。
スポーツ選手ならどうだろう。
「これが俺のオリジナリティだ」
と鍛錬をサボってて、
成績の出せないスポーツ選手が人を感動させることがあるだろうか。
愚直で弛まぬ鍛錬が、少しずつ積み木を積み、
他者を抑える成果へとようやく届くのではなかろうか。
スポーツ選手が「自分のオリジナリティを守るために他人の試合を見ないようにしてるんだ」
などと言ってたら笑われるだろう。
「積み木を積み上げることこそが作品なんだ」
これかなぁ…娘に伝えたいことは。
…娘が、14歳で中二病を患ったあたり…いや、その前だな。12歳くらいに聴かせたい話。