消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

「落下する夕方」江國香織

多分、丁度僕らの世代ってのは、この辺なんだと思う。
江國香織
吉本ばなな
村上春樹
村上龍

つまり、この辺が中心で、
あとは原田宗則とか山田詠美とか宮本輝、えーとそれから
・・・よくわからないな、体系立てて読んだ事がないから。
とにかく、中心地にこの辺があると思う。

みんなが読んでる、ってことだ。

二十代の感性と言うか、生き方というか、
口はぼったい言い方をさせてもらうなら
思春期の悩みに、上に上げた人たちの言葉は
実にスムーズに染み入ってくるのである。

それは二十代をリアルに捕らえている、ということではないし、
解決を提示してくれる、ということでもない。
二十代から三十代に共感できるリアリスティックなエピソードを出しているのではなく、
むしろ奇麗事、絵空事でまとめるファンタジー性が、
彼らが支持される要因だと僕は思う。

人は、とかく思い出を美しく塗りたがるものだから。

上記に上げた中でも江國香織は「美化」が顕著な作家の一人だと思う。
それ故に、何事をも美しいガラス細工のフォトスタンドに納めてしまいたがる女性読者の、
圧倒的支持を持つ、といったら反感を買うだろうか。
実際的に僕は男性の友人で、江國の熱狂的ファン、という輩には出会ったことがない。
もちろん、非常にたくさんのファンがいるのだから
その中に男性がいない、と考える方が不自然なのだけれど。

ひとつに、江國香織が描くのが女性である、という点が大きいと思う。
主人公が女性である、ということではない、なんと言うか
生の女性を描いている、という点が、男性に時に拒絶反応を起こさせると思う。
実際、あまりに生々しくて目を背けたくなる事もある。
女性の感情の機微と言えばいいのか。

(一方で村上春樹村上龍が、「男性」を描くのであっても、
男性「そのもの」を描いているわけではない点が
性別を超えた支持を得ている事実に寄与しているように思う。
村上龍や春樹が描くのはファンタジーなのだ。リアリティがないという意味ではなく)

江國香織の「落下する夕方」は、
そう言う点で非常に「女性」を描いている。

長い前置きのついでにもう一点。
ここからは多少作品の内容に触れてしまうことをご容赦願いたいが、
「人の死によって何かを解決させようとする」点を上げておきたい。

最初にあげた作家郡はまさにその点で区分できるかもしれない。
村上龍は外すべきかも知れないけれど、
人の死に対して、何か独特かつ共通の「軽さ」を、私は上記作家たちに感じる。
あっさり死ぬ。

それは、繊細な感性ゆえにいつも現実世界で傷ついてる、
作品の中の主人公たちの「生き難さ」の投影かもしれない。
あっさりと生と死の境界を越えてしまいそうな危うさ。
作家自身の体験も多分に含まれてるのかもしれない。
鋭敏であるほど、社会はいきにくい。
繊細であるほど、社会はとげとげしい。

実際に壊れていくガラスのような人々に触れたとき、
そういった印象が強烈に作品世界に反映されているのだろうか。


本編の内容に触れる前に感想をほとんど書き終えてしまったように思う。
それでもちょっと思い出してみると、

主人公は、八年間の恋愛同棲生活を、
男の一方的な申し出から破綻させられた女性。
二十代半ば、から後半といったところだろうか。
個人的偏見だが、「一番扱いにくい時期」だ。

男は、偶然から知り合った「華子」という女性に惹かれてしまい
主人公との生活を続けられないと判断した。
八年間も同棲していたら内縁の妻として申請できそうなくらいだけれど
男の勝手な言い分を、主人公も受け入れるほかない。

人と人とは感情でのみ唯一、つながっている。
江國香織はおそらくそう考えている。
女性的な、理想的な世界の見方だと思う。
そこからは利害とか損得とか手続きとか世間体といった煩雑な現実の空気は
意図的に省かれている。

心が途切れた。だから別れた。

物語前半は、いや、全編を通して、
この主人公の、「態度は明確に別れ、気持ちは完全に切れない」という
非常に不健康な心理状態を見せられ続けることになる。
多分、これは生の女性の「予想図」なんじゃなかろうか。
けれども、現実の女性たちは男性よりも割りきりが早い、と聞いている。
他の女になびいた男をいつまでも想う様な、
そんな女々しい女性、一昔前ならともかく、現代に存続しているだろうか?

それは統計をとってみなければわからない事だから、言及しないけれど。


なぜ男は、八年間もの蜜月を終わらせなければならなかったか。
そこに登場する「華子」は、
主人公の、社会と現実にしばられ過去にも縛られる姿勢と対照的に、
非常に自由で奔放な女性として描かれている。
小動物のようにストレートに生きているために
純粋で無垢でまっすぐである。

欲望に忠実で対人関係を尊重するところがない。

「華子」は理想像として描かれてる。と思う。
自由に思うままに生きたいと思いながらそうできない、
あらゆる女性の「ありたい姿」を体現している。
(それは、本当は男性にとっても理想であるのだけれど、
男はむしろ従属する事を好むから、ベクトルが異なる)

しかし「華子」は、100%理想的な姿では描かれない。
状況と言う現実に縛られている人間が憧れる、
縛られてない奔放な人間は、人には愛されない。
同性には愛されない。
男たちはわがままな小動物を愛でるように、
「華子」をケアしたがる。
男はケアするのが好きなのだ。
そうして、「華子」に巻き込まれて主人公の恋人も巻き込まれ
「華子」は他にもいくつかの「渦」を作って巻き込んでいる。

そういうステレオタイプな登場人物たちが出揃ってきたところで
話は淡々と進み、突然の終わりを迎える。

落下する夕方
このタイトルに込められた想いはなんであろう?
劇中でほんのわずかに、タイトルを想わせるシーンがある。
華子が、主人公が、共に暮らす部屋で夕日を見るシーンだ。

夕日の沈む速度は早い。「落下」という表現はいいえて妙だ。
落下する夕方」が指しているのは、間違いなく「華子」であろう。
それは、太陽が昼間の最も輝かしい時を終えると、
つるべ落としが如くその身を隠すように、
消え去る様を描いている。

この作品を通して江國香織が描きたかったものはなんであるのだろうか。
理想的な女性像と、
けして「大草原の小さな家」風に、単純で明快に生きられない
現実の息苦しさだろうか。
ガラスのような人が生きるには、この世界はあまりに尖りすぎている。
たくさんの傷を得て、割れるか、曇るか、
どちらかしか選択肢がないこと。
そういったことだろうか?

作者の心情や意図を探るほど不毛な事はない。
感じるままに感じればよい。それが唯一絶対な感想だと思う。
でも、自分はこの作品を読んで、
どうしてこのような形の物語を描かねばならなかったのかと、
そう考えずには居られなかったのだ。

映画化もされてるらしい。
どこにそのような魅力があるのだろう。
理想を描くなら理想的な、現実を描くなら現実的な手法が合ったと思う。
理想(華子)と現実(主人公)を混在させる事により、
この物語は共感もしにくくそれぞれの暗部ばかりが目に付く、
いただけないストーリーとなっている。

江國香織は多分、主人公に近い。
自身の理想とした「華子」を現実に、自分の側に近づけてくることで
結局「華子」を壊してしまったのではないか。
長大な反省文を読んでいるような気分でもあった。

透明感ある文章で、相変わらず読みやすかった。
そして相変わらず、もやもやするものを残したままにする作品だった。