消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

精神病へ

「精神が肉体のおもちゃだというのならば
なんとコントロールのきかないおもちゃだろう」


肉体的欲望、肉体的発露。
精神はおまけに過ぎず、肉体を満たすための知恵を絞る
精度のわるいCPU にすぎない。

それがどんなに性能の良いCPU であっても
「今日は何を食べるか」
「今日はどこで寝るか」
「今日は誰とヤるか」

思考のルーチンはこの三パターンの無限的な増殖に過ぎない。

出口は一緒。入り口も一緒。

であるならば、なぜかように多様に複雑に
我々の思考はその枝葉を伸ばし進化してきたのだろう。
自らの枝が絡まりあって身動きも取れないほどに。


統合失調症
この言葉がどんどん身近になってゆく。
最近連続して精神病関連の特集を見た。

大阪の中心地に、日本発の都市型精神大病院ができていたり
一人暮らしのとある母が妄想にさいなまれ奇行を繰り返していた。
自分の母と重なった。


精神病関連への興味は、他ならぬ自分の母への知識の集積である。
母は統合失調症である。
医学的には、40代以降に発病するケースを「遅効性統合失調症」というらしい。
統合失調症のもっともかかりやすい年代は10~20代であるそうで
それ以降の発症は遅効性、というわけだ。


息子がグレかけ娘が心身障害児で姑や嫂と仲たがいを繰り返し、
父親(夫)の浮気がとどめをさす形で母は統合失調症となった、と思う。

原因は本当のところはわからない。
この精神というおもちゃには取り扱い説明書などついていない。
ただ呪詛のように繰り返す父(夫)と姑への恨み言から
これらの要因が根強く母を蝕んだことは容易に想像できる。


私が中学生の自分から妙な言動、妙なテンションが気になり初めてはいた。
精神病の確信が得られたのは大学生の頃だったか。
その後社会人になっても同居していたが
母を避け部屋に鍵をかけて暮らした。

その後家出同然に行き先も告げずにアパートを借りて家を出た。
いい大人が、と我ならが思うけれども
今同じ状況にあれば同じことをするだろう。

母から逃げたい、母が憎い、
そういうことではなく純粋に嫌いだった。ただ純粋に家族が嫌いだった。
それは今でも変わらない。
でもそういう家族があっても良いと思う、そのくらいにはなった。

いろんな生き方がある。それが全部交わる必要なんかない。
家族という形式にこだわろうとするから無理があった。ゆがんだ。
今、ばらばらである状態が自然だと思える。
そういうのも家族、と受け入れるのに時間がかかっただけ。


だがそれは本当に家族だろうか?


母と近似した行動の老齢の女性が画面に映った。
妄想の殺人者におびえ、盗聴されていると筆談をし、
電波で攻撃されていると体の痛みを訴えた。

後に調べてわかることだが、彼女は被害の妄想ゆえに
犯人と決め付けた人物たちへ襲い掛かるなどの迷惑行為を働いていた。
警察の指導でアパートの下と隣は引っ越したそうだ。


うちの母はさすがにそこまでに至っていないが
妄想と現実の区別がつかなくなれば自らを守るために
迷惑行為、危険な行為に至ることは十分にあるだろう。

妄想と現実の区別。
それは我々の小さな脳みそと浅はかな五感でしか識別することのできない世界だ。
本当に私が見ているものは現実なのだろうか。
本当に私が感じているものはリアルなのだろうか。

誰も断言などできはしない。
映画「マトリクス」を持ち出すまでもなく
我々は非常に脆弱な感覚の中でかろうじて「リアルと思われるもの」を
「共有していると思っている」に過ぎない。


精神の能力に完全に任されているそういった「感覚」「現実」
そして現代社会では一億総うつ病といわれるほど、
この「精神」という奴が非常にもろく壊れやすいものであることが
認識されつつある。


かつての日本では、精神障害を持つもの、持つと疑われるものは
家族が座敷牢に閉じ込めて一生外に出すことはなかった。
海外の事例は調べていないけれども似たようなものだろう。

精神病を「恥ずべきもの」「忌むべきもの」と考える向きは
21世紀になった現在でも根強く残っている。
けれども本当に我々の精神はそんなに強いのか?


肉体は風邪をひく。
同じ程度の話で精神も風邪をひく、と現代精神医学では言われている。
精神は確固たる鉄の銅像、頑丈なものなどではなく
もっとやわらかく不定形で、時々風邪をひくようなそんなものだ、と。


もっと気軽に精神病院にいってもいい。
軽い抗ウツ剤ぐらい飲んでもいいんじゃないだろうか。
パキシルとか駄目だけど。飲んだら止めるのが非常に時間かかるから。


なぜ精神病になるのだろう。
健全である(と我々が思っている脆弱な)精神は、
どんなきっかけで風邪をひいたり傷ついたり回線がずれたりするのだろう。


先日見たテレビでは家族の愛が救う(きっかけとなる)という
なんだか安っぽい結果だった。
テレビで見た精神科を調べるうちに書物の紹介をみたのだけれど
すべてのケースはなんかしらの形で「性」に結びついてるという本があった。

「性を隠すな」とその本は訴えていた。


家族の愛が足りないのか、性の問題なのか。
あとはよく言われるように、社会の速度が速くなりすぎて
人間の進化が追いついていないのかもしれない。

まだまだ研究は足りてないのだろう。
ナチスのような暴虐的政治なんかが人体実験をいくつも行い
ゲシュタルト崩壊なんかをやっていたようだけれど
そんな実験素材のある時代ではない。


だからすべては仮説の中だけれども
仮説の中に「孤独」というキーワードがある。
以前から私は近代社会は核家族化したことにより衰退していくだろうと
予言しているのだけれども
精神疾患の原因の中に核家族化があるとしても、
それほど突飛な仮説じゃないだろう。


大家族時代に人々は
良きにつけあしきにつけ家族としてかかわり
家族として向かい合っていた。
(その中で、精神疾患の家族を座敷牢に閉じ込めていた過去も見逃してはいけないが)

人々の弱さ。
それを支えうる知恵と力は
核家族のような分散しがちなものでは紡ぎ得ないものなのかもしれない。