消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

コンテンツを時代にするのは我々愚民の役割なのだ

もしも日本の作品がつまらない、あるいはつまらないものが多すぎるとして
なんの作品、などと限定せず一般論的な意味合いであるけれども
それは作品を生み出す側の責任ではない。
メディアやクリエイター側の責任ではない、ということだ。

購買する側の責任である。
ユーザの、読者の、観客の、購入者の責任である。


市場は売れるものを生み出そうとする巨大なモンスターである。
このラオシャンロン的モンスターは金以外に興味がない。
金につながるから評価の高いものを作り、金をもらえるからいい作品をひり出す。

金がいらないのであればヘンリー・ダーガーのように
一生閉じこもってマスターベーションと創作を続けていればいい。


ゴッホだって太宰治だって売れたくて書いていた。金が欲しかった。
そして自殺した。作品が大いに売れて金が大いに儲かったらどうなったであろう。

ゴッホ太宰治を殺したのは大衆である。我々大衆である。
この功罪の意味さえわからない人間は民度が低すぎる。
人類は連綿たる歴史を紡いで「進化」してきたはずである。

であるのに現代社会が
例えば1970年代のロックを、
明治大正昭和初期の文学作品と、
ルネサンス期の古典を超えられないとするならば

それは明らかにおかしい。「歴史」が全然機能していない。
先に進んでいないということだからだ。
その責任は人類にある。
そして人類は大衆である。


8対2 の法則がある。
優秀なものはつねに全体の二割で、その二割がすべてを築き上げている、という法則。
大衆とは、いうまでもなく八割の側である。
では八割には責任はないであろうか?
ある。
二割の邪魔をするとすればそれは罪だ。


良い作品、良いコンテンツ。
これらが金を生むように仕向けられないのは
大衆がそれらに金を出さないから。
金を出せばメディアという貪欲で薄汚いモンスターはそちらに突進してくる。
グラビモスみたいに。


良い作品、良いコンテンツとはなんであろうか。
私は正直、ここまで偉そうに書いてきておきながらアレだけれど
スポイルされた民度の低い大衆なので、よくは、わからない。
ただ、おそらくそれは「新しいもの」であるはずである。

なぜなら古いものは既に完成しているからである。
同じ物語を読む必要はない。新しい物語に金をだすだろう。
「金を出すべきである」


例えば先週「アルプスの少女ハイジ」の盗作疑惑で騒がれた。
良い作品を世に広げるきっかけとなったのだから
この盗作には正当性も価値もある、と私は考える。

だが一方で大人気のアニメを実写化してコバンザメのように売上を拾おうとする人がいたら
それはどうだろうか。


新しいものを「新奇なもの」と言ってるつもりはない。
くだらないものはどんなに目新しくても下らないと思う。
過去の名作たちを思い出して欲しい。
チャック・ベリーが初めてジョニーBグッドを歌った意味を考えて欲しい。

「新しくて良いもの」
大衆はそれに金を出さなくてはならない。
もっと狭視野的に言うと、古いものに金を出してはいけない。


時代を作ってるのは二割の天才ではない。
彼らは産んでるだけだ。
「それを時代にするのは我々愚民の役割なのだ」


愚かだけれど、役割まで見失っちゃまずいよな。
頑張ろうぜ、兄弟。