消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

天気がいいから死にたい

ゴールデンウィークのハッピーな雰囲気にあわせて
あまりにも天気が良くて思わず死んでしまいたくなった。
そうやって気まぐれに死んでしまうような選択があってもいいように思う。
それをうつ病と表現してもいいのかも知れないけれど
文明の衰退期、終焉である「死」にたどり着いたのかも知れない。

天気がいいから死ぬ、というような。


寝たい。
食いたい。
やりたい。
死にたい。


同列な欲求だと思う。
自殺願望をタナトスというらしいけれど
人は本来的に、あるいは本能的に「死にたいスイッチ」を持っているように思う。

そういえば最近「スイッチを押すとき」という山田悠介の小説を読んでいる。
小説の中で、四人に少年少女は十歳の時に「死ぬスイッチ」を渡され監禁される。
その設定以外、内容については随分残念な出来だけれども
スイッチなどなくとも、我々は死ぬ手段をもっている。考えればできることだ。
太宰治もそんなスイッチが入ったのだろうか。


天気がいいから死にたい。
それは後ろ向きでもなんでもなく、ひどくハッピーで満たされていて
贅沢でぜい肉でわがままで退廃的で
最高級のフランス料理を気に入ったものだけ一口ずつ食べたり
ロウソクみたいにマリファナに火をつけたり
だらだらと裸で女を抱いたりするような

おそろしくくだらなくて裕福で
実に日本的な気持ちよさであると思う。

つまり環が閉じているんだ。
完結してしまっている。
物語に残されているのは、あとは死しかないんだ。
幸福の完結は緩慢な死である。
人は不幸でなければ生き続けられない。


天気がいいんだから、みんな死ねばいいのである。