消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

なぜイジメるのか

昭和51年産まれ。
あまりイジメというものを見たことはない。
気づかなかっただけかもしれないし、
今よく語られるような凄惨さがなかったからかも。
私らの当時のイジメといったら、
無視した、とか
グループに入れない、とか
そういう規模だった気がする。多分。
上履きに画鋲とか机にイタズラ書きとか
そういうのはドラマや少女漫画だけの世界だった。

そういう漫画がむしろ手法を展開し助長したのだろうか?
冗談みたいだが、いわゆるゲーム脳と呼ばれる、
脳科学の分析もある。
インプットされる情報によって人間性が破壊されることも、
証明はされていないが可能性は示唆されている。


しかし、私はもう一つ別の可能性を考えている。
人間のリビドー、本能的欲求との関連である。

まず第一の問い。
人間は、平和的な生き物だろうか。
争いの中で安穏と生きるのが人類の根源的欲求だろうか。

歴史上、争いが途絶えたことはない。
戦争がなかった日はただの一日もないのである。
競争社会を見ても受験勉強を見ても、
人は本能的に争うことが好きなのだ。

悪いとは言い切れない。
争うことで切磋琢磨し、自らを高め、
勝つために努力する。
そうやってついにはここまでの文化文明を築いたのだから
人間の負けず嫌いが進化を促進した、とも見れる。

だからそんな人間本性に反して、
運動会で全員一位にするなど
あってはいけない教育である。
争わない教育は鬱屈を呼ぶだろう。


第二の問い。
生物は、同種族であれ異種族であれ、
共存共栄を望むものだろうか。

口ではイエスと言うだろう。
ではなぜ金持ちは万人にチャンスを広げず、
企業は他社を負かすために必死になり
社内では出世競争が起きるのだろう。
運動会の例の如く全員が部長になれるなら、
あるいは出し抜く必要はなくなるだろう。
しかし今度は、真面目に働き効率化を追求することを
しなくなるだろう。

共存共栄を目指しているなら、
日本も韓国も中国も北朝鮮も、
互いに手を取り合って笑顔で成長できるはずだ。
理想が如何に絵空事かが判別できる。


第三の問い。
他者の痛みを感じること可能だろうか。

まぁ不可能だわな。そりゃ不可能だ。
想像する事はできる。
それが精一杯、そしてそれが、最も重要。
想像力。
昔よく「自分がやられて嫌な事は他人にするな」
と言われたと思うが、
つまりは他人が嫌だと思うことを想像しろ、ということだ。

この想像力が何よりも重要で、欠如している人間が多すぎる。
想像ひとつできないから他人の嫌がることができ、
想像ひとつできないからその結果や責任にさえ
考えが及ばない。
イジメた相手が不登校になって人生を棒に振る可能性がある時、
それを背負える人間がいるだろうか。
そんな単純なリスク管理すらできない人間など、
ネコよりも脳みそがたりない生き物と言える。


第四の問い。
人は個人的な生き物か、集団的な生き物か。

これについて一つのパラドクスを提示する。
一人殺したら殺人。大量虐殺は英雄。
イジメに置き換えてみよう。
一人を蔑むとイジメ。
国家や企業がライバルを駆逐するのは戦略。

人間はおそらく本来的には争いごとが好きなのだ。
他人を打ち負かすことが好きなのだ。
利己的に自分だけの利を求めるものなのだ。
気に入らなければ排除しようとする生き物なのだ。

それを唯一の武器である理性で抑えてるに過ぎない。

この欲求は、あるいは時折の戦争や諍いで
解消されてきたのかもしれない。
しかしやたらと平和になりすぎた昨今、
そして運動会でも会社の出世競争でも、
争うことを何故かしら丸目てしまおうとする
事なかれ的日本の風潮。

これらが欲求を鬱積させ、
発露のひとつがイジメ、なのかもしれない。

だとしたら、なんと非文化的な、
生物としての人間的あり様だろう。
これは人間性では無い。
獣であった人間の醜い利己的遺伝子だ。



何となく、私が言いたいことの方向性は見えるだろうか。

イジメは人間本性の、
鬱屈した欲求の発露なのではないか、
という予測である。意見である。
頭だけで考えた想定である。
人間は攻撃的でイジメをする生き物なのではないか、
という懸念である。
そして声を大にして言いたいのは
だからこそ。
だからこそ、理性と倫理の育成が重要である、という
当たり前かつ重要な提言である。

欲求が抑えられないからといって窃盗は赦されるか?
本能のままに人を殺めたら赦されるか?
あなたは隣人の気分に生命の危機を覚えながら
生きてゆけるだろうか。

それらを抑えているのは理性であり社会性であり倫理である。
人は獣ではない。
全ての人がルールを守りモラルに則っているからこそ
人類社会は成立する。

私の分析では、イジメという行為は、
人間性ではなく動物性の本性に従った行為である。
生命として見れば動物である。
しかし、人間の行為ではない。

理知的に生きることのできない、人外の獣たちには
動物園がふさわしい。
すべからく、コンクリートの壁の中に収まるべきである。
(刑務所のことね)