消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

自炊代行業者、提訴!?

東野圭吾先生、林真理子先生らが、
ついに自炊代行業者を提訴したそうだ。
業者7社、でもどこかはわからない。
http://www.asahi.com/national/update/1127/TKY201211270769.html

損害賠償を請求しているが、その額がなんと
計147万円
・・・え?
す、少なくない?
「億円」の間違いじゃなく??

多分、見せしめ的なもので
お金が欲しいわけじゃないからこの額なんだろうけれど
その程度しか損害を被ってない、ってことなら
自炊代行を敵視しないで欲しい、なぁ。


自炊は本当に便利である。
そして、
自分でやろうとするとこれが尋常ならざるしんどさである。
機械を買って、
自動スキャンなんかも性能の悪いご家庭用で100枚ずつくらいでガシャコンやって、
時々紙が巻き込まれて変になって、
それを目視で確認する労力、

そしてなんといっても、愛すべき書籍を裁断する悲しさ。

我々がうさぎ小屋などと呼ばれるようなアホみたいな居住閑居から解放され
書室とか書庫とか持てるような金持ちになれるなら、
そりゃ紙のママ、本のまま持っていたいものでもあるのである。
一方でそうであっても、日々劣化していく紙質は、
味といえばその通りであるが
文字がぼやけたりすすけたりしてくるものなので
電子化しておけばひとまずは安心、でもあるのである。

それを押してもなお電子化に反対される作家先生の方々には、
下記の瀬戸内寂聴先生のインタビューを見ていただきたいのである。

http://www.bookscan.co.jp/interview.php?iid=062

古くは写経。
活版印刷は革命であった。
コピー機の登場。
ワープロ、パソコンといった、文字の電子化。

文字は、
文明のあけぼのから人類の歩みにあわせて、
確実にコピーを産み、それゆえに共通の言語となって
人々に慕われていったのである。
ここにきて「コピーを悪」とする動性は、
もちろん、理解できないとは言わないけれども
しかし身勝手ではないか、と思うのである。

難しい問題である。
本を、誰かが、一枚一枚、
大変な労力をかけてコピー機でコピーして、
それを友人に貸すことがあるとして、
それは私的利用の範疇を超えているであろうか。
それが超えているというのであれば、「コピーしていない本を貸す」ことは
超えているであろうか?
図書館で本を貸し出すことは?
CD を貸すことは?
借りたCD をiTunes に取り込んで聞くことは?

うん、難しい問題である。
PDF 化した本は、「コピーしたもの」なのか、
原著を裁断して捨てる代わりに手に入れた「原著に近いもの」なのか。

この論争はなかなか終わらないと思う。
願わくば、
世界人類の知的好奇心と、
コンテンツ作成する作者側の創作意欲と権利が、
同時に守られるような手法にならんことを。

私個人的に思うことだけれど、
出版社とかJASRAC とかレコード会社ってものが解体されたらいいんじゃね、
なんてね。
コンテンツ流通の機能はもう果たしたんだから。
良いコンテンツを作ろう、という、
別の機能として再生を試みたほうがいいと思うんですよ。

時代の流れ、ようようにしてうたかたの飛沫が如し。
かつ消えかつ結ぶ泡に同じ、
避けようと思っても生まれるものであり、
保とうと思っても壊れるものである。