消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

男と女の間に流れる越えがたい深く暗き河

女性専用車両の強制力についての
ちょっとしたトピックがヤフーニュースに載っていた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130223-00000301-bengocom-soci


都心部ラッシュアワーにはほとんど常識的となった
女性専用車両
しかしその車両の「専用」は強制力のあるルールではなく、
「皆様のご理解とご協力」により成り立っているものであるそうだ。

素敵じゃないか。素晴らしいじゃないか。
実に日本人的ではないか。
日本人の美徳、モラルの高さ故に成立する、
いわば美意識の具現化であるわけじゃないか。
その発祥の要因はともかく。

それでもボクはやってない」という映画がある。
痴漢冤罪を描いた映画だけれど、
多くは語らない、しかしある程度の年齢以上の男たちは
自己防衛本能としてこの知識を徐々に増す傾向にある。

「痴漢に間違えられたら人生が終わる」

それがたとえ冤罪、実際にやっていない、人違いであるとしても、
「痴漢」として捕まってしまったら、
どうやら日本では人生が終わってしまうらしいのだ。

であるので、我々通勤サラリーマンにとって、
満員電車は女性側とは別のベクトルで恐怖の時間、
悪夢の乗り物なのである。
サラリーマンたちがギュウギュウ詰めの満員電車から降り立ち
駅に両足をつけて思わず漏らすため息は
「また一日、生き延びた」
「明日は知れず、しかし今朝は無事である」
そういう心境から漏れ出る吐息なのである。

「本当に、満員電車で痴漢に間違われないかという
恐怖は尋常ではないです。私なんかはなるべくオジサン連中の
そばに乗るようにしますし、両手もできるだけ上にあげて
間違われることのないように必死ですから」

高度成長時代を終え、生き方が迷走する時代、
何が大切で何が真実か見えにくいこの時代の中で
生きようとすることそれ自体が
とてもささやかでありながら、かくも難しいものであり、
弱き種族「中年」たちは、
オヤジ狩りブームの去った今、
痴漢冤罪の恐怖に耐えながら労働に従事しているのである。

「できれば男女完全別にして欲しいぐらいですよ」
力なく笑うサラリーマンの背中はしかし、
戦士としてのこの時代の迷いをにじませているのだった。


日本よ。
日本人たちよ。
かつて君たちは、隣近所であれば行き交う時の挨拶を交わした種族の
末裔なのだ。
顔見知りでなくても、袖触れ合うも他生の縁と、
道をすぎれば会釈した心意気の末裔なのだ。
どうやら武士、海賊といった過去の歴史同様
美徳が滅び去った荒野に残るのが現代日本であるのかもしれないけれど。

かつてはそういう心意気があったのだということを
歴史の教科書ででも学んではどうか。
少なくともその時代の人々であったなら、
女性専用車両の是非や強制力などで
論争するようなこともなかったであろうことを。