消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

「分かり合う」なんて幻想にすぎないから

新春、ツイッターでたまたま流れてきたこの、
毎日新聞連載記事を読んで、色々と思い出し、考えた。

http://mainichi.jp/shimen/news/20150101ddm041040040000c.html
ログインが必要みたいなので概略させていただくと、
川崎市北部の住宅街に移転を計画する精神障害者グループホーム
移転先の近隣住民の反発を取材した記事である。

おそらくは筆者は障害者側の立場の弱さを憂えてる一人だと思うが
記事は中立を保とうとギリギリの立ち位置で書いている。
ただ中でも、近隣住民の反対運動の中心人物であった、
大手企業元役員70歳の言葉が重かった(そして誘導的だった)。

「一番の当事者の住民には何も解決できない」。
矛先を向けたのは、13年に成立した障害者差別解消法。
グループホーム建設を巡っては各地で住民とのトラブルが起きており、
障害者の人権を守るため、
付帯決議で建設に住民同意は必要ないと定めた。
「今は弱者が強くなっている時代。でも我々も強者ではない。普通の住民なのに」。
唇が震えていた。

だが、言葉が途切れた後に、ふと表情が緩んだ。「私もいつか逆の立場になって(ホームの)お世話になるかもしれない。だから悩んだ」


私の双子の妹は障害者である。
幼年の頃からの障害で、特殊学級を経て社会にで、
当時の「障害者自立支援法」という行政の投げっぱなし法に振り回されながら
母と一緒に職を転々とし、
今はあるホームで暮らしながら、作業所と、カフェの店員として働いている。
カフェはもちろんスターバックス的なおしゃれな店ではなく、
障害者たちが店員となり、それに理解のある客が訪れる、
支え合いを目的としたカフェである。

妹が生まれた38年前から今に至るまで、
障害者に対する壁、法、意識は、
様々な変革を遂げつつも根本は変わっていない。

それは「不理解ではない」
漠然とした不安、排外性である。
おそらくは村、群れ社会性の人間の根源的な本能であり、
特に密集住宅国家である日本で顕著な「異端の排除」の気質である。

そして私は、それを否定しない。むしろ共感できてしまう。


私と妹、家族が幼年から思春期のほぼすべてを過ごした大型マンション。
小学生の頃、そのマンションの隣の公園に障害者用施設、作業所ができることになった。
近隣住民が猛反対する中で、私は、
その公園が塞がれることでスーパーへの道が遠くなるというそれだけの理由で、
何やらシュプレヒコールを上げている集団の中にいた。
お祭り騒ぎを楽しんでいただけの、
(自分で言うのもあれだが)無邪気でノンポリなデモ参列者であった。

後年、母が当時を振り返って言っていた。
障害者用施設として反対されているのを、同じ近隣住民として、
障害者の母として、
大変辛く見ていた、と。
私は心を痛めた。


障害者も、どんな人でも、
平安に無事に生きられる社会と地域と家があればいい、
それは理想的であり短絡的であるが、
果たして現実的だろうか。
答えはノーである。
すべての人間にとっての平和と平穏は、ファンタジーである。フィクションである。


障害者、とひとくくりにしてもその障害度合い、内容は千差万別、十人十色である。
時折障害者支援をしてくださるボランティアの方や学生がいう言葉がある。
「障害者の方々は純真で綺麗」
吐き気がする。
上辺だけのボランティア精神である。

例えば動物を見て、目が綺麗、純粋、邪心がない、という人はいる。
では動物は安全だろうか。
否である。
犬は自衛のためなら人を噛むし、猫は気に入らなければ爪でひっかく。
優しさと仏心の具現のような目をした馬だって、後ろ足で人を蹴り殺す事故を起こしうる。

「何も考えてないこと」「純真」が、
イコール「善き人」ではないのだ。

障害者の中には、自制する機能を完全に失っているダウン症のような人もいる。
子供の頃であれば、特殊学級で「わがまま」「暴れる」程度に見えていたかもしれないが、
年を経て大きくなると、その自制心が無いためだろうか、
たいてい身体が大きく力の強い大人に育つ。
男性のケースであるが、この身体が大きく力の強い障害者が、
町中で女性を襲うようなケースは事実あるのである。
ふと親が目を話した隙に彼らが解き放たれ、自生することなく思うままに行動したらどうなるか。
少し想像すればその恐怖はわかることだろう。


では障害者はすべて隔離施設に入ってもらい、
世間や地域から隔離すべきだろうか。
それで世間と地域は安全が担保されるのだろうか。


脱法ハーブ(危険ドラッグ)を吸って、車を暴走させて人を殺す人間がいる。
引きこもりで被害妄想を募らせ、ついに通り魔となり夜な夜な人を刺す輩がいる。
ネットの掲示板で宣言をして秋葉原で殺戮をした男がいる。
女性男性問わずであるが、ストーカー行為をしてついに相手を殺す輩がいる。
殺すまで行かなくても、精神的に負担、負荷を与えてくるだけで嫌な存在である。

私達の隣人は、本当にすべてが信頼に足る人たちなのだろうか?


こんなわかりやすい犯罪者だけではない。
泥ママ、キチママと呼ばれる存在をご存知か。
子育てに忙しいことがその発端なのかわからないが、
子供を何かしらの理由なり言い訳にして、知人のモノを盗んだり店で窃盗を働く人。
母親の報告例が多いことから「ママ」と呼称されるが、孫にあげるためにスーパーで窃盗する老人などもいるし、
パパ側がおかしいケースも少なく無いだろう。

ネグレクト(育児虐待)なんかも一例である。
放置母という種類もあるようで、隣人知人に我が子に無理やり押し付けて
遊びに行く親もいる。
その「遊び」が不倫だったりしてタチが悪い。
不倫が周辺、職場、隣人、と肉親以外を巻き込んだ騒ぎに発展するケースもある。
いずれも犯罪である。

我々の隣人は、本当に犯罪者では無いのだろうか。
あるいは…我々自身は?


障害者、と表現した時の差別感。
町中で奇行を演じる障害者への、異端者を見る目。
差別。
しかしこれは、けして人類からは消えることがない、区別なのではないか。
あなた自身、私自身、
いつ心を破壊して犯罪者になるやもしれぬ存在なのであるが、
もしかしたら、だからこそ人は恐怖を覚えて魔女裁判を行うのだろうか。


わかりやすい異端は糾弾しやすい。
だから排斥する。その、人々の考えもわかりやすい。
ただ、わかりにくい犯罪者の存在に対しては無力だから、
わかりやすい異端を攻撃する。


私が得ている結論は、一つである。
異端はかならずいる。
障害者に限らない。どこにでもいる。
だったら、「平穏無事で何事もない安定した生活」こそが幻想であると知ることだ。
そもそも、世界のどこかで人と人とが殺しあっている異常時代にあって、
どうして川崎市北区の閑静な住宅街だけは平和で無事故であるべきだ、なんて言えるのか。
アメリカの大学でマシンガンの乱射事件が起こる時代に、
どうして我が子の学校だけは異端審問をおこなって排外的平和を手に入れられると思えるのか。


だからどうしろ、なんてことは言い切れない。
私だってリスクが高いものは避ける。
自制心のないタイプの障害者が隣の部屋に住むことになればいい気はしないだろう。
結局、正論をかざしたところで何もない。空論だ。
だから、「わかりあう」なんてことは幻想に過ぎないのである。
せいぜい、「我慢しあう」が限界なのである。
そして、せめて自分は「異端」側に回らないように、
せめて自分の周囲(肉親、知人)はそうならないように、
心砕いて道徳とマナー教養と勉学に励むべきではないだろうか。
無知無能がこれら異端の発端であるケースが多いのだから。


世界中の誰か一人でも不幸であったら、私は幸福ではない。
真実この感性を持つことができたら、世界はようやく次のステージにいけるだろう。
・・・多分それはけして訪れることのない感性なのだけれど。