消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

判断力は教育を経て育つもの

絶対的な正義が無いと仮定して
(この仮定には哲学方面からかなりの議論がありそうだけれど)

この仮定のもとに、
「だから教育することは何もない」
と結論する人間がいるときたら、
愚か者の最たるもの、と言うほか無いだろう。
その判断、判決すら教育による賜物でありながら、
自らの出自を否定するような論説は、傲慢を通り越して
哀れな無知と言える。


まずこんな言い方をしてみようか。
「それが正しいかわからないとしても、それを教えること全てが無価値でしょうか」
私はよくこういう時に台形の面積の求め方を例に出す。
台形の面積の求め方は、数学的に絶対正しい。
だからこの話の逆に見えるかもしれない。
しかし「台形の面積の求め方を知らないと人生はうまくいかない」は、
正しいかわからないことの例だ。
実際社会に出て働いてる私たち社会人が
本当に台形の面積を求めた事例など、一度も無いだろう。

では、使う予定のない知識を教えることは無駄だったろうか。
小学校で学んだあの算数の時間は、
台形の面積を求めることよりは使う可能性の高い、
漢字の書き取り勉強に充てるべきだったろうか。

仮に、台形の面積の求め方すら知らない人間がいたら、
私はできれば教えてやりたい。
数理学的な考え方とロジカルシンキングは無関係ではなく、
その基礎知識を持っていない人よりは、持ってる人と話したいからだ。


台形の話はこの位にしておこう。
正義、正しさはどうだろう。
絶対的な正義が無いから、子供には道徳を教えないとする。
台形の面積も教えないとする。
では子供は何から学ぶか?
無から?
空気から?
大地から?
宇宙から電波受けるとか?

あなたが教えなくても誰かが教える。
誰かから教わる。学ぶ。
人間の思考性能はオリジナルではない。
勝手に想像して組み立てる、にしても、原点は与えられる。
拾う。
真似る。
そこから手前勝手に理論を構築する。
それがどれだけめんどくさい若者を育て上げるかご存知だろうか。

ちゃんも教育を施さないとそういう風に育つ。
これはもう厳然と、そういう風に育つ。
マナーも、
礼儀も、
常識も、
正義も、
それらはある限られたエリアで定まる定義である。
台形の公式と違い、国が変われば事情が変わる。
だから、これは後天的な資質てある。
ほっとけば身につくような生得的なものではない。

日本の常識が世界の非常識であることもある。
東京の論法が地方で通用しないこともある。
そういう、地域性があることも、ゆくゆくは知らせることを含めて、
教育しなくてはならないのではないか。
たった一つの絶対正義では無いから、と言って、
東京の正義、日本の正義を教え込まない理由にはならない。
人は誰もが集団の中で生きており、
その集団というのは身近な地域であり、
身近な地域なりの正義、マナー、常識、コモンセンスがあるのだから。

人間は、子供は、
放置していたら善き人には育たない。
これは性善説性悪説以前の、教育論の話だ。
狼に育てられれば狼の正義に準じて育つように、
人は良くも悪くも、単なる動物なのである。
動物を人間足らしめているのは、人間教育である。

少年の凶悪犯罪が横行し、
少年法への嫌疑やあり方がまた世の中で話題となっている。
その少年は悪く育った。
そうであるならば、悪く育てた人や地域も存在するのだ。
もちろん、罪を犯したのは犯人である。
そういう犯人を産まないための教育と地域性を、
我々人間は諦めずに訴追しなければならないのではないか。