消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

純真無垢、という悪魔

子供は純真無垢だ、と愛でる人がいる。
それは多分正しい、がしかし、
子供だから愛おしいんだ。
純真無垢そのものは愛らしいものではない。
ピュアでイノセントであることは全然可愛らしいものではない。

猫は可愛い。
犬は可愛い。
幼児、子供も、
その弱さゆえに可愛い。
可愛いことで自らを敵から守っている。

ピュアでイノセンス
であることは、「可愛いから許されること」である。

純真無垢というのは、
白くてフワフワで木漏れ日の下で輝いてる天使の羽根のようにキラキラした存在、
ではない。

本能に忠実で欲望に真っしぐらで無知であること。
それが、イノセンス、「無垢さ」だ。

子供の好奇心は時に残酷だ。
可愛らしい笑顔と辿々しい言葉は大人の心をときめかせるけれど、
物を知らない子供たちは、
昆虫の羽根を抜いて分解したりする。
アリの巣にお湯を注ぎ全滅させたりする。
果物をナイフで滅多刺しにすることは、愛らしい天使のすることだろうか?
タイミングと状況が許せば、
時に子供達は子猫の命を奪うだろう。
好奇心、という透き通るように透明で、無知な翼を広げて。


さて。
時折、障害者のことを「純真無垢」と表現する人がいる。
その表現は往々にして正しいかもしれない。
本能に忠実で、欲望に真っしぐらで、無知であるような、
未発達な精神を持つ、
精神薄弱な障害者に対しては。

しかし子供と違う特徴がある。
子供も、彼らも、歳を取れば成長する。
大人になる。
長い手足と高い身長と、
それ相応の肉体的な力を備えて。
(しかも歯止めが利かず食べる量が多い事が多く、かなり巨大な体躯になる事がままある)

純真無垢な
子供と同等の、
抑制する力を持たない好奇心と、
その欲望を実現するために惜しみなく使われる、
腕力、脚力、声量…


純真無垢な大人。
それはもはや、恐怖の対象でしかないことは、
子供の残酷な好奇心を知っている人なら理解できるはずだ。

ちなみに私の妹は精神薄弱な障害者である。
叔父にあたる人もまた、障害者である。
独断と偏見に満ちた当記事の内容はしかし、
私自身の身内を含めた体験談であることを言い添えて、
言われなき批判や差別を書いているわけではない事を弁明する。

もちろん、あらゆる人間が型にはまらないように、
(例えば日本人、という型で一億の人口の特徴を表現できないように)
障害者、という呼称、区分けで、
全ての人に私のこの記事の内容が当てはまるわけではない。

障害は後天的なものもあれば先天的なものもある。
行政の雑な区分けにおいても、障害重大度に数段階あるように、
重度、軽度の分類もある。
重度といっても、軽度といっても、
どの程度の障害で何が出来て何が出来ないかは千差万別だ。
全く日本語を解さない人もいれば、
サヴァン症候群のように異様かつ天才的な集中力と記憶力を発揮するタイプもある。

ただ、、、
どちらかと言うと、こちらのタイプの人間は、
ステレオタイプ的に「典型」な型にはまるかもしれない。
即ち、障害者を、
(特に重度障害で圧倒的にイノセンスで無知な障害者を)
「この子は純真無垢だからー」
「障害のある子はみんな素直で嘘つかない良い子ー」
そう表現し評する人々、である。

嘘をつく知恵があれば障害者も健常者も嘘をつく。
時には犬猫だって「まだ餌貰ってない」と嘘をつく。

無知を純真と言い、
ありのままであることを無垢と言うのは、
もしかしたら正しい表現なのかも知れないけれど、
子供のそれとは明らかに違う。
力と、身長があるからだ。

もっとも…
「健常者」という分類の中にも、
害ある悪人は少なくないのだから、
敢えて大人の障害者を批判的に書くことも無いのだけれど。

先日、ちょっと冗談のように暴言を吐き続ける男性、
明朗で明確な日本語を、
しかし全て悪意ある表現と敵意ある言葉に変えて大声で話す男性だった。
付き添いの男性がなだめていなければ、とても正気の沙汰に見えなかった。
新築の新しい病院内にあって、
「貧乏くっせぇ病院!マジ時間の無駄!」
と大声で吠える彼。
その他の言葉は何も書きたくないが、
純真無垢というのは、子供であったり、
物言わぬ動物たちだからこそ、
愛でられるものなんだ、とつくづく感じた。