消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

僕とネコと離婚物語~ 100 %勝利へ~その22

7章「カトウのやったこと」その



「約束はちゃんと守って」
妻に……今は元妻に、この離婚の際によく言われた。
口頭ではあっても、約束したことは守って欲しいと。
でないと何も信じられなくなってしまう、と。

私はいつも苦笑いでそれに応えた。
詫びたことさえある。
だが、なんとバカバカしい、と思っていた。
腹もたった。


約束を破った人間は信用をなくす。
それはキミなんだよ。

そう言いたかったが、この時期はぐっとこらえていた。
最終コーナーを曲がったところ。
最後の直線で気を抜いてはいけない。



私と妻は公証役場で署名捺印を終えた後、新宿区役所へ離婚届を出しに行くことになっていたが
私は妻を待たせて一度会社のフロアへ戻った。
昼休みがもうすぐ終わろうとしている、休息の残り香のような雰囲気の中で
署名した協議書の原本をキャビネに閉まった。
周囲の同僚はその内容に気がつくはずもなく、昼休み明けのチャイムを気にしていた。

妻へは原本のコピーを渡していた。


会社を出て妻と合流し、昼時だったのでバールに入り、ランチメニューを頼んだ。
フォアグラハンバーグのランチ。
ビールも頼んだ。
最近フォアグラ安くなった? ランチは千円でしたよ。


この当たりが最後に談笑していたころだったか。
いや、もうひとつ居酒屋の記憶があるのだけれど、
どちらが最後だったろうか。
居酒屋の話は次の章当たりで出すとして
私たちは忌憚なくお互いの話をしたり仕事の話をし、
料理をほめ、ビールを飲んだ。

「〇〇くんさ、キミと同い年くらいって言ってたじゃない」
「そう、三十前半」
「探偵の調査資料にさ、四十代くらいの男性と密会、って書かれてたぜ」
「マジでー!? それは笑えるわー、いっとくわ」


電車にのって、池袋から新宿へ向かう山手線の中で。

「荷物分けたりしなくちゃね」
「何を?」
「本とか」
ここで失笑。
「協議書をちゃんと読んで。明記されているでしょ。あの家にあるものはもはや、
何一つキミの物なんてないんだよ」
「……!?」
「ちゃんと協議書を読んでご覧」

どおりで反論しないと思ったら、ちゃんと読んでいなかったのか。
私がその気になれば妻を素っ裸で追い出すことが可能な内容が
たった今署名された自身の名前と共に、文書内に巧妙に刻まれていた。

「……ここが『それぞれのモノとする』だった気がするんだけれど……」
「気のせいじゃない?」
「……あなたに村上龍を渡すくらいなら、全部燃やしてやるわ」
「どうぞ。ただし今度は刑事裁判だよ」


新宿駅から区役所へ。
(私はずっと、都庁に提出するもんだと思ってました、離婚届。
区役所なんですねぇ)
道中で妻が(まだこの時点では妻であり、あと一時間後には元妻になる)、
本が欲しいと紀伊国屋書店へ立ち寄った。

「……この本もあなたのもの、ということになるの?」
「離婚協議書締結後の購入と証明できる、そのレシートがあれば大丈夫なんじゃないの?」
「……解せないわね」
「俺が許可したものはもっていって構わないんだから」

妻はふくれながら「ニーチェの言葉」を買った。
ニーチェの著作からよりすぐった言葉が掲載されている本で
その後読んだがなかなか良いものだと思う。
ニーチェの著作はとかく退屈で睡魔誘発力がすさまじいから、
要点だけ抜き出してくれているのはありがたい限りだ。


この本も結局引っ越しのどたばたの中で忘れられ私の手元に残った。
後で読んでみたけれども、妻が読めば身につまされるであろう言葉ばかりであった。
信頼とか、人間性のくだりなんかはね。
持って行って欲しかった。むしろ。



区役所で書類手続きされている長い時間、
嫁は「ニーチェの言葉」を読み、私はそれを覗き込んで読んでいた。
「……これお前、痛いだろー?」
とは言わなかった。
ドイツの哲人の言葉。彼女はどう読み取っていたのだろう。


(つづく)