消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

永遠の0 (ゼロ) /百田 尚樹

かつてこの国に戦争があった。
かつて世界に戦争があった。
多くの人が死んだ。
多くの家族が引き離された。
多くの笑顔が引き裂かれた。
多くのささやかな夢が打ち砕かれた。

戦後60年戦争を知らない子供たちが多く生まれ
この国はまるで戦争を知らない国となった。
戦争を悪とし、当時の軍事政権を一時の集団ヒステリーと考え
自らとは一切関係のない、遠い昔のこととして考える人が
国民のほとんどとなった。

たった60年前のことなのに。たった、である。
明治維新よりも徳川幕府の歴代将軍よりも関ヶ原の合戦よりも
戦国時代よりも最近の出来事なのに
遠い遠い昔の合戦絵巻のように、曖昧に霞のかかった
過去の汚点のような歴史の1ページ。

日本が、そうしたのだ。
国家ぐるみで、マスメディアぐるみで、
戦争を断罪し、当時を否定し、無理やり教科書の紙面に押し込めたのだ。
そして他国の内政干渉である靖国訪問に戦々恐々し、
同じ犠牲者を英霊と戦犯に分け、
戦争関係の博物館を軍国主義啓蒙、回帰と批判し、
一方で捏造された、他国から押し付けられる戦争犯罪を鵜呑みにし
「済んだことです、すいません」と
事なかれな気質の中に収めようとしているのだ。

南京大虐殺従軍慰安婦問題も、無かった。
私は事実は知らない。ただ、「無かった」と信じる心を捨てない。
それが祖先らへの本当の敬慕ではないのか。
日本人のすべてが善人ではなかった。
しかし善悪すべての人達がこの現代社会の礎となったのであり
我々一人ひとりもまた、未来をつくる一人ひとりなのである。
過去を否定する人間に未来が描けるだろうか。
自分の立っている地面さえ認めることができない、と言っているに等しい。

歴史は、学ばなければならない。
そして自らで考えなくてはならない。
日本の教育にはこの両方が決定的に欠落しているが、
特に後者の欠落が著しい。
歴史を学ぶにあたり、あえて日教組をやり玉に挙げておくが
同様の罪を文部省も持っているものである、
即ち正しい歴史認識と正しい情報と正しい資料。
これらが正しく教育されるべき現場にあって、
教師個々人の思想や主義主張が反映されてしまうのは
もちろん人間の為すことである以上どうしようもないものであるが
問題が大きいのである。

正しく歴史を学ばず正しく考えることをしてこなかった日本人に
正しく戦争を理解することができるだろうか。
正しくない理解はまた誤った歴史判断を未来にさせてしまうのではないか。

もし、正しくない教育が子供に為された時、
それを正すことができるのは誰か。
親だ。
学校の先生、塾の先生。
私立に入れる、いい学校にいれる、良い教師につける・・・
それより一番効果的な英才教育は、良い親になることだ。
良い親になるためには多くを学び多くを考える必要がある。

戦後60年、戦争について考える一つのきっかけとして、
本作品は良書である。
正しいことが書いてあるのかどうか、それは知らない。
それを考え判断するのは読者の仕事だ。


「永遠のゼロ」
零戦パイロットであった祖父の足跡を孫が辿るストーリー。
平成の世で、司法試験に失敗し腐っている主人公は、
祖母の死から本当の祖父の存在、宮部久蔵の存在を知る。

本当の祖父・宮部久蔵は祖母との間に娘をもうけたが、
ついに戦争で帰らぬ人となったのだった。
祖母は別の男性と結婚、その事実を死ぬまで明かさなかった。
祖母の四十九日に祖父から明かされたその事実は、
ずっとおじいちゃんと思っていた祖父と血が繋がっていなかったショック以外、
主人公の心を動かさなかった。

しかし主人公の姉の探究心、
主人公の母、つまり本当の祖母の娘の想いにつつかれて
特攻隊としてこの世を去った祖父の足跡を辿り始める。
祖父の名を覚えている人を訪ねる旅。
それは、戦後60年、失われていく戦争の記憶、
ある恣意的な企みの中で闇に葬られようとしている、
戦争と特攻の真実に迫る旅となった。
そして、祖父が真実愛した家族、仲間たち、
「日本人」というものについて探求する旅となった。

真実の愛の物語、
と、来年公開予定の、本書を原作とした映画は銘打っている。
確かに、この物語は零戦パイロットとして真珠湾攻撃から最後の特攻までを生きた、
宮部久蔵なる戦士の愛の物語である。
彼は凄腕かつ歴戦の勇士であったが、およそ戦士という人ではなかったようで
愛の人、なるほどその通りの人であろう。

ただ、彼の大きな愛は、妻、娘という最愛の家族だけに収まること無く
広く大きな愛であり、
それ故に想像を超える苦しみ、葛藤の中にあったことを
戦争体験者らの物語を聞くうちに知っていく事になる。

死にたいと思って戦う人間などいない。
しかし特攻は、死、九死に一生ではなく、十死零生の、
まさしく死ぬほかない出撃であった。
それを受け止めて飛び立っていくパイロットたちの葛藤、苦しみ。
それを強制した日本という国の過去、真実存在した、そういう日本。


圧倒的な筆圧で迫るこの小説はしかし、
意外なことに作者のデビュー作であるそうである。
ただ、作者はテレビの脚本家で、
物語や文にこなれていることは読んでいてわかる。
唯一、登場人物すべての名を呼び捨てにしていることが気になったが、
物語としての完成度、歴史に対する真剣な眼差し、
勧善懲悪ではなく、戦争賛美ではなく、軍事政権批判ではなく、
ひたすら「人物」にフォーカスをあてた物語は、

戦後という怠惰安寧の時代に生きる我々に多くを教えてくれる。
誰かの血と命を吸った大地の上で、我々は生きているのだ。
綺麗事ではない。
確かにここには犠牲者があり、
さらには、日本が殺した人々もあったのだ。

軍事政権を批判して、敗戦国日本をただひたすらに「悪」とする風潮は
さすがに昨今の歴史研究の進展から減ってきているように思われるが
外国に相対する日本政府の対応、態度などを見ていると
まだ多くの根深い問題を抱えていることを想像させる。

せめて、我々日本人一人ひとりは、
戦争を過去にせず、無反省に反省するだけでなく、
自分で考え、自分で日本というものを受け入れよう。
私は、日本が好きだ。
そう断言するためには、知らなくてはいけないことがある。