消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

精通事始

ある男が精に目覚める話が2ちゃんに掲載されていて
私の中に静かな感動が生じた。

http://blog.livedoor.jp/kinisoku/lite/archives/3560538.html

さりげなく登場する父親の男気と
想像してあまりある両親の葛藤が笑えて仕方がなかった。

そして、自分自身のことを思い出す。
これは1980年代、
まだ携帯電話もなくファミコンも出たばかりで、
かろうじて家族に団欒があった、
そんな時代の物語である…。


明確に覚えていることと、遠く曖昧な記憶とがある。
その日、弟とお袋がいたことは覚えているのだが
同席していたことは間違いないはずの妹の存在が思い出せないこと。
テレビで見ていたそのシーンが銭湯の、しかも女湯であったことは
艶かしい女性タレントらの肌の質感も含め覚えているのに
それが「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の一幕であったのか
8時だョ!全員集合」のコントの一幕だったのか、
あるいは親から基本禁止されていた「オレたちひょうきん族」であったのか
明確さと曖昧さの中で僕は回想する。

時期も不透明である。
小学校2~3年生の頃であったように思う。
とすると、1983~1984年となり、
1985年放送終了となった「8時だョ!全員集合」の時期と重なるのだが
一方で加藤茶志村けんが女湯の上がり場でコントしていた記憶も強く、
とすれば「8時だョ!全員集合」直後に始まった「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」
の方の印象が強いのだが、一体どちらであろう。

当時我が家のテレビは「トリニトロン」と書かれた三原色のマークが懐かしい、
ブラウン管のテレビであった。メーカーは覚えていない。
随分昔は円盤型のチャンネルをガチャガチャと回して選局する白黒テレビがあり、
それは物心ついたころから父親の専用テレビとして父の部屋に置かれていた。

居間には茶色い木枠のデザインに、ボタンを「カシャン」と押すタイプの
そのテレビが中心に置かれ、
せいぜい27インチのブラウン管で、
夕食を食べた後にテレビ番組に興じるのが毎度のことであった。
そういえばこの頃、テレビ画面をもっと大きくしたい、なんて欲望すら出ない、
「テレビといえば家のブラウン管」という感覚であったな。
我が家の家族団らんの根幹を支えたブラウン管テレビ。
男はつらいよ」や土曜日のドリフターズ
夜の7時はアニメとニュースの時間がかぶるので、前半5分はNHK と決められていた。
辛かったあの5分。笑いあった「男はつらいよ」、
すべてあのブラウン管からもたらされた穏やかな時間。
いつまで現役であったかも記憶が曖昧なのは寂しいことだ。


その日、
つまり私が大人に、「男に」なった日であるが
(これで「男に」なるのか疑問の余地はあるが)
私は座布団を二つ折りにし、それを顎と腕にはさんだ、
いつものうつ伏せ姿勢でテレビを見ていた。
腹部から腰、足に至るまでをテーブルの下に伸ばした、
寝そべりスタイルの中でも背筋を酷使する「アザラシ」と呼ばれるスタイルである。
(今命名した)

下半身の前部、前、股間、ええいめんどくさい、息子は床に面していた。
つまり、私のはじめては床オナであった。


左隣に弟がいたように思う。
母親は後のテーブルに、椅子に座ってテレビを見ていたように覚えている。
妹のことだけがどうしても思い出せない。
妹はテレビを見ずに自分の部屋でお気に入りの車遊びをしていたのかもしれない。
(ミニカーやら、男兄弟のお下がりおもちゃで遊ぶのが好きだった。人形もいた)

テレビでは女湯に潜入する加藤茶志村けんが映されていて、
5秒毎にいれてくる、子供の大好きな下世話なシモネタに、
私も弟も大爆笑していた。
母も笑っていたと思う。
優しかった母。ヒステリックなところもあったけれど、子供を愛してくれた母。

異様に覚えているのが女湯の風景、そして出演女性の肌なのだが
「ハイビジョンか?」と思うほどに、
細部に渡り細かくタイルの目地まで見えるほどで、
女性らの肌は、今の美白ブーム前であったからだろうか、
小麦色というにふさわしい健康的な裸体に湯の湿り気が光沢を与えて
まるで陶器で作られたような美しい方のライン、腰のラインが艶めかしく…

いやー、ほんとにハイビジョン画質だぞ、記憶が。
これは間違いなく脳内補完されているわけで、
目から入った光の屈折だけが画質の全てではない、ということを物語る記憶である。
ブラウン管の走査線本数を考えても、女湯の全景、女性が10名ほどもまばらに写せるような
そんな引きの映像で肌の質感など表現されていたはずもないのに。
つまり子供の目には、すべてがHDMI、ハイビジョンであった、ということなんですね。
経営不振のシャープのAQUOS に教えてあげたいな。
「みんなの心の中では、ちゃんと最高画質で記憶されているのですよ」って。
Retina ディスプレイなんかいらなかったんだよ。


さて。状況は以上であるが、大体ご想像されたであろうか。
ブラウン管テレビ。
カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ。
超美麗女性の肌(HDMI
テーブル、椅子。
私、床オナ。

…?
最後のが説明足りない?
わからない?

だからー、
カトちゃんケンちゃんごきげんテレビで女湯のシーン見ててー!
大爆笑しててー!
体揺すっててー!
そしたらチ○コが床にこすれて、射精しちゃったんですよ!
皆まで言わせるなよ、恥ずかしい!

無駄なことだと思うけれども一応弁明しておきたいのは、
私はブラウン管に映しだされた女性の裸体に欲情したわけでは、ない。
物理的に、あるいは生理的に、
床(カーペット)に押し付けられた陰茎が一定数以上の振動、振幅運動を与えられ、
生理現象として射精に至っただけである、と主張したい。
まだ「やりたい」とか「裸がみたい」とか思う以前の年頃である。
マガジンのグラビアの価値なんか全く分からずジャンプしか読まなかった頃である。
シティーハンターかキャッツアイかどっちか忘れたけれど、
エッチな漫画と判断して読まなかったくらいである。
カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」をそんな邪な目線で見ていたわけではない、
ということをどうかご理解いただきたいのだが
多分ムリでしょうね。多分。状況的にね。優しかった母も当然「あー」ってね。思ったよね。
つうか言ってたし。


ご存知か知らぬ、人によってもだいぶ違うようなのだが、
精通、初めての射精は、私にとっては激痛であった。
大事なちんちんがもげるんではないかと驚くほどの痛みで
床から跳ね起きた。

痛い、痛いと大騒ぎしながらパンツの中を見ると
ココら辺はなぜかモザイクがかかってるように薄ぼんやりしているのだが
多分白濁、というよりは黄色っぽいトロリとした液体であったように思う。
母親と弟は何を騒ぎ出したのかわからん、という顔であったが
母に「痛い! なんだこれ! なんか出た!」
と騒いで見せたところ、笑われたように記憶している。
いや、笑いを必死で我慢していたような表情だったか。

大丈夫、問題ない、そういうもんだ、的なことを言われたように思うが、
それよりもよく覚えているのが母の追求であった。
「テレビ見てたら出ちゃったの?」
「興奮したの?」
「女の人の裸見てたらでちゃったの?」
まだ私の中で「性」と「射精」と「裸体」が全くつながってなかったその時は
母が何言っているか全く分からず、
しかし頑なに「女性の裸を見て興奮した」点は否定していた。
これは、恥とか照れとかではない。
事実と相反するから異なるという旨を必死で主張していたのだ。
焼け付くような痛みの中で、ひりだすように口から出た、
まことに疑うべくもなく真実な証言であったと思うのだが
あなたはどう思われるか。

とにかく痛いしよくわからない見たこと無い謎の体液が出ているしで
ほとんどパニックであった私は病院へ行く事を主張したように思うが
母親によって却下された。
当時お兄ちゃん子だった弟は兄の苦しみに胸を痛めながら
「お兄ちゃんが死んじゃう!」と思っていたかどうか。
とりあえず焦ってはいるが無言であった。

最終的に、出しちゃったパンツやら、達成感でぐったりしているチン○ンやらをどうしたか
そのあたりの記憶は全くないのだけれど
女湯の肌の質感と、家族の配置、
座布団の柄まで、克明に記憶されているのだった。
ただ、痛みについては、実のところよく覚えていない。
痛かったしやばかったしパニックになったのは覚えているのだが
痛みそのものが何ハナゲだったかは、薄らいでいくものなのだろう。

痛かったことの証明というか後日談で、数年後、自分の意志、というか
本能でシコシコし、また射精した時も
痛くて夜中にパニックになったことがあった。
その時は家族が寝静まっていたのだったが、
トイレで泣きながら、もう二度とシコシコしないと痛みの中誓ったのだった。

誓いは、あっという間に破られることとなるのだが
それは、皆さんも御存知のことと思うので
またいつか別の日、別の機会に、語ることとしたいと思う。

おとなになるのって、痛い。