消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

墓は生きてる者達のためにある

生憎の雨の中、 鎌倉近くの墓を参った。 先日降り積もった残雪がまだ多く、 しんしんと寒さが染みる。

母の死から二年。 もともと無精で会うことも少なかったから あまり不在を感じることがない。 しかし時折ふと思い出す。 いないんだ、と。 悲しみが薄らいだというより まだなんとも信じられない。 人の死というものがまだはっきり実感がな い。 母がいないことが理解できない。

アルジェリア天然ガス施設で人質テロがあ り、 犯行グループだけでなく多くの人質の方が亡 くなられた。 不在だ。 穴があいたような不在。 信じることもできない不在。

お袋の死は悲しかったし もっと親孝行しとけばよかったと、 当たり前のことを当たり前に思った。 でもたった二年、 いや正直ひと月もたたずして ケラケラ笑い楽しく生きられた。 悲しさがよくわからない。

人は死ななくてはならない。 生き物は死ななくてはない。 不老不死はありえない。 決められた寿命の中をどうにかこうにか過ご して やっぱりいつか死ななくてはならない。 だから、いつまでも悲しんではいられない、 のだと思う。

とはいえ人の死が悲しいのも事実。 墓を参り、大切な人を思い出し、 限られた寿命の大切さを実感する。 今生きる者達のために、墓はある。