消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

FARGO

ふと休日にFARGO を観る。
誰かに薦められて借りたものの、観ないでいた映画だ。
多分、5年以上前に借りたもの。もっと前かもしれない。
なぜふと観ようと思ったのか。
…別にそんな気まぐれの理由付けはどうでもいいか。

コーエン兄弟の名作にして異色作とされる作品である。
実際に起った事件を元にしているという。
作品冒頭では脚色すら加えていないと言っている。

だとすると…だとするとなんと悲惨で、滑稽で、醜悪な事件であろう。
雪だるま式に不幸が膨らんでいく。
舞台となったアメリカ北部の雪景色の中で、
馬鹿馬鹿しいほどの悲惨な事件がドミノ倒しのように繰り広げられる。

最初は、偽装誘拐による、身代金の着服だった。
小物中の小物として見事な演技を見せる主人公が、
妻を誘拐させ、妻の父(そして自分の務める会社の豪腕社長)から
身代金をせしめようとするのである。

小物氏はその誘拐を、自分の会社の元ゴロツキのツテで見つけた
これまたゴロツキ、チンピラ風情に依頼する。
このチンピラが妻を誘拐するのだが、道中、巡回パトロール中の警察官に会ってしまう。
その警察官は、ナンバープレートがついていない車を不審に思い
チェックしたのであるが
拳銃という暴力がすべてをもろく粉々にしてしまう。

目撃していたカップルを撃ち殺し、被害が拡大していく中、
そうとは知らない小物氏は義父に金を出させようと滑稽な芝居を演じている。
小悪党が犯罪をおかすと残念な結果になる、典型のように見える。

殺人事件を担当したのが、妊娠8ヶ月くらいの妊婦婦警、というのがちょっとおもしろい。
どうやら署長らしいのだけれど、実に独特な間のある、
「田舎の町の人のいいおばさん警官」という感じが
悲惨で凄惨な事件をそれと感じさせない。


というか、この映画全般にわたって、おそらくは意図的に、
殺人と暴力の醜悪な臭いを感じさせない作りになっている。
多分、だからこそ、かえってリアルなのだ。

FARGO
地図で見ると、カナダに程近い、ミネソタ州の町のようである。
雪の、どこまでも白く静かな世界が映画全体の雰囲気を締めており
それはとても牧歌的で美しい。
登場人物たちも、小悪党、チンピラ、鋭敏さからかけ離れた警官たち、
と、田舎町の弛緩しきった間合いの人たちで
時として悲惨な事件を忘れさせる。

あまりにものどかで、あまりにも静かな連続殺人。
ハリウッド的なドラマもなければ
サスペンス超大作の緊張感も無い。
推理も恐怖すらも緩みきっている。
ただ、そこに圧倒的な現実として人の死があり、
そこには銃社会アメリカの暴力の象徴、銃がある。

引き金を引く僅かな力で生き物を絶命させる力。
努力も、訓練も、ろくな知識も必要なく、
簡単に発射される銃弾。


そう言えば昨年夏、海外旅行をした折に、
テーマパークで実弾を撃つという経験をした。
非常に貴重な体験だった。
渡された弾丸の、たった一発で、私はあまりの恐怖に撃てなくなってしまった。
こんなに軽く、こんなに簡単に、こんなに何の苦労もなく、
人を殺すことができるのだ、と。

そんなものがアメリカ人の各ご家庭の引き出しにしまわれているのだ。多分。



映画中盤に、全く前後のつながり無く
ほとんど無意味に挿入される一人の日系人がいる。
彼は、このFARGO 事件を担当している婦人警官の級友で
婦人警官が署長になっているというその栄光をまぶしく、
非常に眩しく感じたのだろう。
突然現れて、印象的なエピソードを残して消えていく。

彼は、精神を壊して頭(記憶)がおかしくなっていた。
何よりも印象的なのが、その彼よりも、よっぽど現実のほうが
気が狂っているという、その状況についてである。
おそらくはその対比のために監督が挿入したのだろう。
金のため、という明確な目的をもって進んでいるように見える悪人たちの、
間抜けで馬鹿馬鹿しい小さな失敗、計画のずさんさ、掛け違いの連続が
精神崩壊した男性の世界よりも狂っていくのである。

それが実話だということを最後に思い出すとき、
世界のほうが狂っているんだな、と
静かに感じさせる映画であった。



実に、怖い映画だった。
そんじょそこらのホラーより。戦争映画より。
こんなにもくだらない掛け違いで死ぬとしたら
一体一生懸命生きるってことは何を意味しているんだろう。

単純かもしれないけれど、
拳銃は、社会から抹消スべきだと思う。
他にも色々思うところはあるけれど、まずは、それだよ。