消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

謹賀新年、あけまして、今年もよろしくお願いいたします

2013年が終わって2014年が始まりました。
何がどうというわけでもないのに、
やはり年を超え、正月を迎えると気が引き締まるものです。
正月は相当に特別なものであり、
やはり他の日とは景色も違って見える気がするのです。

世界中でかなりの人が特別な日と考え、
特別な感情を持つ、この1/1 という日。
これだけの人の想いが蠢き、同じ方向性を持つとなると、
それはもう、一つの「力」になってるんじゃないかとさえ感じます。

それは、なんとなく年の瀬、正月の太陽が黄色く見えることとか、
正月はかなりの確率で晴れることとも、
無関係ではないように思うのです。

「想い」とか、想念、思念というものは、どういったものでしょう?
形がなく目に見えないものだから、それは無いもの、空気のようなもの、として
重要視しないのは科学物理学偏重のこの21世紀的考え方過ぎます。
例えば、想いが強すぎると霊魂が残る、みたいに、
想念に力があることは昔から可能性として信じられてきたことなのです。

こんな事例もあるらしいです。
昔のマンガの事例ですから眉唾かもしれませんが、
レベルE というマンガで、
「ある人物の強すぎるストレス、想いが、人を吸い込んだ」
なんてオカルトな話でした。
正月に対してのこの集団的な「想念」も、何か超常的な現象を生んだりしないものですかね。

ユングは、「集合的無意識」と呼んで、
人類には共通の無意識層がある、という考えを持っていました。
各個人という個、個性、個人の経験以外の、もっと奥深く、
人間という種のDNA に刻まれたような、共通の無意識層。
雷を恐れたり、地底に死後の世界があると考えたり、
死者の魂は消え去るのではなくどこかに残る、と考えたり・・・
誰かが伝導したわけでもないのに、人々はあまりに共通のイメージを持ちすぎている。
その説明としての「集合的無意識」なわけですが
この無意識に力があるとしたら・・・

などと、初詣の行列の中で思ってみたりしたのでした。
これだけの(行列の)人間がひとつのことを本気で祈ったら、
きっと世界は変えられるんじゃないかな、って。

変えるだけが正ではないですが。
世界を正しく変える力でありたい。
ちっぽけなブログであっても、ほんの1ミリくらいは、
世界を動かしているのかもしれないので、

今年も頑張って書いていきます!
世界を動かす言葉たちよ!!
(・・・気負いすぎました。適当なことしか書いていないブログですから、世界は1ミリも動きません)
(私の人生だけは、2014年、1ミリくらい、動くかもしれません)

それでは、本年も、マイペースにどうでも良すぎるブログですが、
お付き合いいただきたく、よろしくお願いいたします。