消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

名古屋無差別殺人未遂の運転手事件から思う魔女狩りの可能性

詳しい話はわからないけれど、
名古屋駅前にて、
レンタカー暴走による、
無差別殺人を試みた男、
彼は無職引きこもりらしく、
しかも最近、犯人の男のみを残して、
家族は引っ越してしまったそえである。

家族に見捨てられた絶望感から犯行に及んだのだろうか?
その内情、闇は知れないが、
被害者、
あるいは「これから被害者になるかもしれない人々」
にとって直近の切なる願いは、
このような犯罪の再発防止ではないだろうか。

自分が駅前を歩いてる時に殺意を持った車が突っ込んで来るなんて、
そんなことを想定しながらビクビクと生きなければならないのだろうか?

大多数の声は「NO」であるだろうから、
犯罪と被害の抑止に期待する声が高まるだろう。
ガードレールをつければいいだろうか?
否である。
秋葉原の連続殺傷事件が想起されるように、
車から降りた犯人が刃物を持って暴れたらガードレールじゃ防げない。
犯罪の方向性を対向車や電車に向けられたらやはり防げない。
(私は以前、全運転手との間の盲目的信頼で、
車、運行というものは成り立っている、と書いた。
それが怖くてたまらない、と。
悪意を持った人、寝ぼけた人が、
ちょっとハンドルを傾けるだけで、対向車は死ぬのである。
また、先日、トラックが踏切に侵入して電車に追突する事件もあった)


とすればどうするか。
犯罪者の、犯罪実施未然防止しかないのではないか。
それは…
色々話をはしょれば、
犯罪予備軍の事前隔離に他ならない。
…しかしそれは可能だろうか?
中世、「魔女狩り」という恐るべき私刑が行われたことがある。
疑わしきは罰せ。
いや、それ以上だろう。
密告社会、気に入らなければ処罰、
そんな社会を産むかもしれない。


だがしかし、他にどんな方法があるというのか?

社会的には本来であれば、
それは教育によって是正されるべきである。
育てる段階で犯罪の芽を摘む、という、
実に健全な国家思想であり、
本来の文明国家、近代国家はそのような教育的地盤…
「信頼できる隣人」であるように構築されるべきである。


さて、我々の世界は、その理想に対して可能性を見出せるだろうか?
…今、世間の人間に聞いたら、八割型期待できない、
と回答するのではないか?
教育現場に聞いたら九割を超えるかもしれない。

それは人間という種の限界なのか?
組織、仕組みの限界なのか?

答えの見つからないまま、
恐るべき犯罪者により命は奪われて行くのであった。


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