消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

STAP 細胞をめぐるチェック機構の無意味さ

自分の、IT系会社でも感じることだけれど、
すべてはなべてチェックであり、
チェックは基本であり、
チェックは最も面倒で手を抜ける要素でもある。

製品を作るにあたっては、
企画書、要件定義書、ユーザインタフェース設計書、
などのように設計書を作成し、複数人で作成する「作品」に対して
相互理解を得、誤解のないように制作を進められるよう文書を多く作成する。
その中で考慮漏れ、ミス、考えの相違がないように
複数回のレビューを実施、
上位層が承認することになる。

それは理研であっても同じであるらしい。
にもかかわらずチェックがすり抜けていくのは、
それは我々の会社でも同じである。

「こういったつもりだったのに」
「こんなこと書いているなんて気が付かなかった」
「(そもそも面倒で読んでなかった、めくら承認だった。テヘ)」

品質を保つのは、1にも2にもチェックである、と感じるのは
昨今の私の持論である。
かつては・・・やっぱり面倒だった。めんどくさかった。
日々の業務の中でチェックはどんどん遅れてしまい、面倒になってしまい、
もうやってられなくなるのが常であって
実際「チェックが最も大事」なんて思っていながらも
業務を改善できずにいる。


STAP 細胞発見と生成をめぐる、小保方氏と理研の論争については
真実がどこにあるのかなんて専門外の私にわかるわけもないが
物事を進めるにあたってはチェックが本当に大事なんだな、と。
面倒がらずに「この実験結果を証明するものは?」「エビデンスは?」と
チェックすべきであったのではないでしょうかね。

もちろん、
余程に上手く作られた、だます意志のある報告書については
チェックにも限界があるかもしれないけれども。