消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

他人がいるから自分でいられる

他者の目、って物凄い重要だと思うんです。
例えば一人暮らしの休日、
家に引きこもっているとしたら、
相当だらし無い格好、しちゃいません?
誰も来る予定がなければ、
部屋だって掃除せずにぐちゃぐちゃにしてません?
ぐちゃぐちゃじゃないにしても、掃除機かけるのさぼったりしません?

他人に会う必要が無かったら、美容院だって行かない気がしません?
服だっておざなりで…
だんだん顔を洗ったり歯を磨くのもサボりだしたりしちゃって…

意識高い人なら、自宅の中で引きこもりニート状態であっても、
清く美しく過ごすかも知れませんが、
オナラに気を使ったり、ゲップくらい平気でしちゃうでしょ?
ニートで、誰にも会わない生活が確定していたら、
多分言葉遣いだって悪くなるんじゃなかろうか。


他人あっての自分、
他人あってのマナー、
他人あっての礼節、
他人あってのルール、
そう思うんです。

例えば無人島で放置されたら、まぁ生きてくのが第一優先になって、
髭も剃らない、食事のマナーも守らない、
トイレは適当、ってなると思うんです。

他人がいるからルールが生まれ、
尊敬が生まれ、
煩わしさが生まれ、
身勝手さが鳴りを潜めるんだと思うんです。
我々という文化的生き物にとって、他者の存在ってものすごく重要なんだと思うんです。
ATフィールド張っちゃうくらいに、意識しなくてはならない存在なんだと思うんです。


例えば、他者がいなかったら、「正義」って生じると思いますか?
真実、真理みたいなのはどうでしょう。考える必要もなくなりそうですよね。
もちろんありとあらゆる発明にしてもそうです。
伝達が不要だから文字は要らなくなるし、言葉もいらない。
衣服着飾っても見せる相手いないし、
邪魔になる、って他者がいないからルールなんてものもほとんどいらなくなる。
試合ができないからゲームルールも不要。
自分だけの享楽から何も発展のしようがない。


他者がいるから色んなものが生まれた。
他者がいるから、煩わしさと喜びが同時に生まれた。
他者のがいるから、、、
正しさ、って尺度が生まれ、
モラルとマナーが生まれ、
他者を意識するから、自制心てものも生まれた。

他者の目がなかったら、我々のうち何人が、聖人君子的に清廉潔白に生きられるだろう?


そんな訳で、他者があるから、我々は自らの正しさの拠り所を持つことが出来、
他者から排除されないために、
他者からの批判をなるべく少なくするために、
ルールとマナーを守り、
最低でも嫌われない程度の清潔さとオシャレさを保ち、
虐められてクビにならないよう、他者から排斥されないよう、仕事をこなす。

もちろん給料のためでもあるけれど、金銭って他人からの評価で与えてもらうものだから。
そこにも必ず他者の目が存在してるんですよね。


他人を気にしなくなったらその人は多分間違ってるし、
人は一人ではヒトにはなれなかったのです。

じゃあどうしろ、って教訓は特に用意してないのですが、
自己中心的な振る舞いや思想を持つ人は、
この辺の哲学からやり直してもいいかもしれませんね。
結局、
「情けは他人の為ならず」なんです。

自分のためにこそ、他者を意識し、排外されないよう気遣うべきなのです。
詰まるところ、「他人に好かれるように生きなさい」と。

媚びへつらえというのではなく、他人の存在と評価は、価値がある、あなた自身に価値がある、
ということが言いたいのです。



カントの「仮言的命令」と「定言的命令(無上命令)」に触れたので、
少し書きました。

キリスト教義など、宗教で戒律とかがあり、それが守られるのも、
神的なものからの排斥を恐れることと同時に、
その神的なものを祀る集団(信者、教会)からの排斥を恐れているのでは無いでしょうか。