消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

戦争とは、何か。

戦争とは何か、と問いかければ
善意ある人々はちゃんと
「悲惨なもの、悲しいもの、怖いもの、悪しきもの」
と答えることだろう。
それは国家のトップに君臨する支配階級の人々であっても
認識は同じではないだろうか。

戦争の歴史、といっても過言ではない人類史の中においても
当然、戦争を忌むべきものと考えていた人々が多くいたことと思う。

ではなぜ戦争が起こるのか?

「悪いことはやらない」という不文律が通用していないのがこの件である。
俺たちが何かしでかす時、頭の中で色んな条件が錯綜する。
「やりたい事」を押さえ込むのは、刑法の抑止力・他者の目・損得勘定を総合した
マナーの心、であると思う。
人の嫌がることをしない、マナー。
それはやがて自分に返ってくる可能性があるからでもある。
エスカレータの片側を空けていないと、通る人が困る。
それはいざ自分が急いでるときにもマナーを守ってほしい、という共通意識になる。

飛躍してしまったとしても、「戦争をするのはマナー違反だ」と断言することは可能ではないだろうか。
他国に押し入って人を殺すのはいささかマナーにもとる。
大量破壊兵器をぶち落とすボタンなんてのも、母親に説教されそうな装置だ。

なぜ人は、国は、マナーに反することをやるのか。
「なぜ戦争が起こるのか」
戦争をただ「怖いもの」と捕らえてるだけだったら
多分発展性がない。今までその感情は抑止力にならなかった。

そこでまず自分は、「当事者ではないから」と仮定してみた。
戦争を起こすのは当事者ではないトップの人間だ。
戦争は大概、大将を「とられれば」負ける。将棋だ。
だから大将は最前線にたって槍を片手に疾駆する、ということがない。
あの織田信長だって近習に守られて(近習が無理やり守って)戦線へ飛び込んでいった。

当事者でないから痛みを「想像」できない。
当事者でないから、戦争を起こしてでもほしいものへの希求をやめることができない。

たとえば以前どこかに書いたけれど、こんな例がある。
社会保険庁の神をも恐れぬ暴虐無人な税金の無駄遣い。
ある元国税省官僚が著書でこう書いた。
「税金の無駄遣いは終わらず今後も続く。なぜなら人は他人の金を真剣に扱うには、まだ未熟だからだ」と。
自分の金なら丁寧に細かくしっかり管理する。
社会保険庁勤務者にだって家計簿をつけてる人間は多くいただろう。

他人の事を我が事として捕らえるには想像力が必要だ。

笑顔で食事を楽しんでるその瞬間にも、餓死者の件数は増え続けている。
それを悪いこととは言い切れないだろう。
世界中の苦しみを全人類が共感してしまったら、あっという間に絶滅してしまいそうだ。
それでも、どこかで誰かが苦しんでることを想像することはできる。
意識することは出来る。
エスカレーターの片側を急いで駆け上りたい人がいるかもしれないと想像できる」

片側を空け、道を開け、信号を守り、不愉快な食事作法を避け、募金をする。

我々は確かに想像し、意識し、行動することができる。
だのに、なぜ。
「当事者ではないから」という解では説明しつくせないことを、指摘された。
確かに、すべての物事の当事者でいられるはずがない。
試合があれば、勝敗が決すれば、必ず勝者とは医者がいる。
北半球が夏なら南半球は冬。

でも戦争の当事者だったら、
それは兵士であったり兵士を送った家族であったり戦地の住民かもしれない。
彼らの気持ちを想像出来たら、
死を想像出来たら
「人の嫌がることをしないのが、マナーだ」

「死なんて怖くないと言う人もあるようですが、私が接した千人以上のガン患者にそんな人は一人もいませんでした」
(引用 浄土真宗親鸞会 http://inochi.jpn.org/hitoiki/P13.htm

まだ、戦争というものの本質を捉えるには至っていないような気がする。
というより、以前書いたものと同じ事を書いたような気がする。
思考が進んでいない。
もう少し、何か先へ進めたら、また書きたいと思います。