消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

戦後60年。

戦後60年

たった、60年。

ちょっと信じられない60年。
それは、歴史の教科書にはのっていても、
関が原とか明治維新とか遠い言い伝えではない。
現実の、現代の出来事。60年と聞くと、そう思う。

その「戦争」を生き抜いた人たちから金を騙し取るとは
なかなか人道に外れた輩もいたものである。
ファウストは悪魔に魂を売って享楽を得ようとしたけれども
もしかしたら既に契約はなされてるのかもしれない。

それはおいておいて。
60年といったら、もちろん自分にとっては永遠に感じられるほど長い時間であるけれども
「なんとか光年」と違って、すごくリアルな数字だ。
あの白黒のカクカクした映像が、東京の焼け野原が、
すごくリアルに近くにあったことに、あらためて驚かされる。
数字の上で、だけ。

確かに、日本人は戦争をあまりに早く忘れてしまっているかもしれない。
自分だってはるか戦後の生まれであるから、
どんなに色んな話を聞いてもなかなかピンとこないのかもしれない。

「なぜ、戦争をするのか」
「なぜ、戦争は起きるのか」

そう問いかければ、イデオロギーの相違、領土拡大、私怨、利益、
理由付けはいくらでもできよう。
理由をつけられる「隙」が、この問いかけには、ある。

「戦争とは、いったい何なのか」

戦争それ自体への追求が必要なんじゃないだろうか。
戦争は、悪いもの、怖いもの、つらいもの、忌むべきもの。
観念的にはいくらでも形容詞をつけられるけれども
それらは次に続く「なぜ戦争が起きるのか」に答えることができない。

観念は、マナーによって守られる。
なぜ信号を守るのか、なぜ悪いことをしてはいけないのか、なぜエスカレーターの片側をあけるのか。
なぜ、人を殺しては、いけないのか。
理由の前に、マナーがある。

戦争の正体を、たとえ観念的にでもとらえることが出来れば
戦争に対する「マナー」がわかるかもしれない。