消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

エンタープライズな世界で生きていきたいの?

もしもここに仕事が出来ない人がいれば、
私は、宮沢賢治のようにワザワザ行くこともなく、
「仕事できないじゃん。じゃあダメだね」
と評価をつける。
場合によっては目を見ることもなく、
直接話すこともなく。

それが資本主義社会の、
エンタープライズな世界のルールであることは
誰も否定しないであろう。
ダメな人はダメ。
0点は0点。
モチベーション上げるために10点50点つけることはあるかもしれないし
育てるのが上の役目と言われて一生懸命コーチングだティーチングだするかもしれないけど、

それでもダメだったら、ダメ。
しょうがないじゃん。
そうやって何人も切ってきた。
それがエンタープライズな世界。

その人たちにも家庭があり生活があり生命があるのだけど、
そんな60億人の事情を、
どうしてこの小さな地球が支えられる??
どうしてこの、
ロスチャイルドとロックフェラーにたっぷり吸われた残り汁で生きるしか無い世界で、
60億人の都合と事情を考えて、仕事していける??

(正直に補足すると、60億人のことなんて考えてない。
私自身と、私の身の回りのごくごく小規模なコロニーの事しかかんがえてない)


しょうがない。
仕事が出来ないんだから。
仕事ができるように、勉強して、真摯になって、プライドを捨ててないんだから。


じゃあ、もし、仮に、
私自身が仕事が出来なくなったらどうなるのだろう?
年収210万で生きることを強制されてる人々、
その血と汗の上にのうのうと胡座をかいて、
「成果が出せてないから」
と切り捨ててきたエンタープライズな私が、

例えば仮に、両腕を失ったら?
頭を強く打って言語思考に齟齬が出たら?
目が見えなくなったら?


あまりにも脆弱で、
DRもBCPもプランニング出来ていない人生の上で、私は。
プロジェクタポインタで簡単に失明しうる程度のリスクを抱えている私は、

突如失われるたった1つの拠り所である「仕事は人並みにできる」を失った瞬間、
かつて切り捨てた彼らのように、
切り捨てられるだけであることは明白である。

「健康で文化的な最低限度の生活」は日本国憲法で保障される基本的人権のひとつだが、
そのおかげで生活保護を受けることができるようになるとして、さて、
(日本人はほとんど認可されない、との噂もあるザル法であるが)

さて私は、どうやって生きていくのだろう?
ちょっと車の運転を誤るだけで失われてしまう程度の、
「健康」という基盤でしか価値を示せない私が、
仮に健康が失われた状況で、
何を言い訳にエンタープライズな世界にしがみつけると言うのか?

かつての被評価者たちにしてきたように、
私も「使えない」と言うタグをくくりつけられた上で、
再利用されるあてもない廃品回収の山の上に放り出されるだけではないか。

なんと、、、
なんと「生きる」ことのシビアさよ。
宝くじに当たるより確率が高いと言われる交通事故の恐怖に怯え、
私はかつての被評価者からの報復を恐れている。

簡単に
失われてしまう私のエンタープライズアーキテクチャ、である。