消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

文通という文化があった頃

「ペンフレンドの二人の恋は、言葉だけが頼みの綱だね」
爆風スランプの名曲、「大きなたまねぎの下で」の歌詞を
今の若者が理解することは難しいだろう。
LINEいじめや掲示板逮捕なんかがある現在こそ、
言葉が頼みの綱である時代であるけれども。

昔。
若い男女は、文通であったり交換日記であったりで
燃える恋心を交わし合った。
電話もよく使ってはいたけれど、電話代が嵩んで親に制限されたものだった。
ワイヤレス子機がまだ珍しかった私の時代、
電話機を自室に運ぶこともなかなか出来ないから、
想い人と時間を決めあって
電話機の前で待機、なんて光景もあった。

今では信じられないことであるが、
電話をかけても、目当ての人が出るかはわからない。
親父さん、お袋さんが出て、
緊張しながら娘さんの名前で取り次いでもらうのだ。
そう言えば、私と弟は声がよく似ていたから、
友人が誤って弟と話し続ける、なんて事件もあった。
どれもこれも時代を感じさせる思い出だ。


そんな中に、手紙がある。
恋人との恋文のやり取り。
年末年始の大掃除に、そんな束が出てくる方もいるのではないか。
若い二人の、情熱的な言葉であったり、
「直接言えばいいんじゃ?」
くらいの日常的な報告だったり。
手紙を書いてる瞬間に相手を想い、
ペンを走らせるのが楽しかった。
メールやLINEとは異なる時間。
その手紙が届いたことを電話で確認し、同じことを電話で話したりするのも、
今思うと滑稽な二度手間だが、
繋がっている感覚が嬉しかったのだろう。

古い手紙を見て、ふと気づいた事がある。
メールやメッセンジャーなどと異なり、
手紙は基本的に送りっぱなし。
送信履歴は相手の元へ。
こちらには残らない。
あの人の言葉はこちらにあるけれど、
自分ははてさて、どんな言葉を送ったのやら、
月日が過ぎればさっぱり記憶の彼方へ、だ。

凄い事例だと、コピーを取って自分が送付した分を取っといてる人がいるらしい。
もっと凄いケースでは下書きをノートにしたためて、
ほぼ原文のままのノートが手書きで別途残されている事もあるという。
(私のお袋など、几帳面な性格のため、下書きノートを基本書いていた、なので残ってる)

しかしほとんどすべての人は、
特に重要でもない手紙の言葉たちを、
ペンを走らせ紙にしたため、
この世でかなりの法的拘束力を持ちそうな、署名まで添えて
将来を約束する言葉とともに、
(大半は果たされない約束とともに)
恋人の元へふわりと投げ入れ、
ふわりと言葉も忘れていたのであろう。

こうして、片方の言葉のみ、
つまりもらった手紙を大切に取っておいているというのは、
随分粋な思い出である。
片側のみという、今では考えられないログの残り方が、
かえって風雅を感じさせるし、
思い出を美化させやすい。
楽しみ方としてはもしかすると性格が悪い分類になるかもわからんが、
時代性にあふれたタイムカプセルである。


そして逆に、
放った言葉が残り続ける、
現代社会、インターネット時代の凄さと恐怖を感じる。
以前から、イジメについて批判的かつ抑制のために私が主張しているのは、
下手したら永続的に残るログと、
公開され手に入れやすい情報の恐怖である。

LINEイジメとして、陰湿な発言を、
手紙と同じ一過性の気持ちで書き込んでいたとして、
それが二十歳、社会人を超えてから自分に舞い戻ってきたら何が起こるか。
ブログでも掲示板でもfacebookでも。
見られることはない、と思って書いたこと、
知られることはない、と思って書いたことが残る恐怖。
イジメられてた側が残す履歴が、ノートではなくevernoteになったら…
そのデータが流出したら…


手紙。
一方通行の不完全なコミュニケーションと言葉たち。
年賀状を贈り合い、
通り一遍等のやり取りをしながら、
大掃除で昔の日記を見つけながら、
つくづく、
時代は変わったと思うのであった。

賀正