消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

想像力を能力と考えている人は誤っている。それは鍛錬による筋力のようなもの

想像力。
私はは想像力をものすごく重視していて、
昨今、すべての人的な問題は想像力で片が尽くし
逆にすべての問題は想像力の欠如だと思ってる。
・・・と書くと極端すぎますかね。

最近気が付いたのは、
想像力の欠如は、勉強と訓練の欠乏なんだろうな、ということ。
私は昔からよくこのブログで引き合いに出してきたのですが、
「台形の面積の求め方なんて生きてく上で役に立つの?」
「円周率なんて社会人になったら使わないじゃん」
これらの疑問的批判的発言は、勉強と訓練の欠乏の最たるものであって、
これらを学ぶ段階にあって、それを小学生らに示すことができないのは、
大人と教師の欠陥なんだわなぁ、と考えている。

もっとも、ガキなんかは、理由や正論はいらないのだから、
無理矢理のつめ込み学習していればそれでいい、と思います。
小学生や中学生が「納得」なんて生意気なこという必要は無い。
成人前のガキどもは納得する能力も低いんだから、
(想像力が不足しているのだから当たり前だ)
有識者のいうことを黙って聞いて義務を果たして居れば良い。
その「義務教育」、
大人になったらわかるけど、ものすごいゆるい「義務」だから。
15時位まで座って授業受けて、
夏休みとか冬休みの宿題がある程度の「義務」も守れないようでは、
「納得」なんて生意気な言葉使うことはゆるされない。
納得できなくてもいいから勉強しろ。
将来の役に立つかわからなくていいから勉強しろ。


それが土壌になる。


つまり、想像力は、というか人間の知識体系と能力は、
土に根を張り雄々しくそびえ立つ、一本の樹木なのである。
こういう基盤、基本的な学びが、次の学びに繋がる、
そういう土壌と幹と枝の先に想像力という葉が開く、ということである。
文字が、漢字が読めなかったら、本だって読めないでしょ?
英語がビタイチわからなかったら、ビートルズだって聞けないでしょ?

聞き取れなくても、感じればいい?
その感受性すら、教育の賜物であることを、
おそらくは多くのガキは気がついていないのだろう。


想像力って言うと、人って、無から何か発想を生み出すことだと思ってるけれども、
たぶんそれは甚だしい勘違いである。
はっきりいって思い上がりである。
一部の許された天才しか、無から何かを想像しアウトプットすることはできない。
それは「創造」である。
「想像」はもっとチープな能力で、
かつ、土壌が無いとできないことである。

簡単にいえば、コピーと言っていい。
想像力と人々が思っているもののほとんど99%は、何かと何かの組み合わせにしか過ぎ無い。
そして当たり前だけれど、組み合わせるためにはそれを知っていなくてはならない。
だから知識という幹が必要になり、
それが低くて足りなければ、低いところにしか想像力の葉を開くことはできない。
高いところに枝葉を伸ばすためには太くて丈夫な幹がいる。
肥沃で強い土壌がいる。
単純なことである。


基礎学習で土壌を固め、
趣味も含めながら様々な経験と本と映像と音とを貯めこんで太い幹を育て、
天高くその先に枝葉を広げ花を咲かせるのだ。

低い人は低いものしか見えてないし、
低いところにしか咲いていない。
自分が低いところにいることすら気がついていない。

本を読まない人は60億分の1にすぎない自分個人の経験しか糧にできない。
映画を見ない人は自分の周囲の景色しか知りはしない。
音楽を聞かない人は2ちゃんでもやってて、キーボードをかちゃかちゃ叩く音しか知らないのだろう。

人間一人のできることは本当に小さくて限られている。
そこに無限の可能性を与えてくれるのが、
本に代表される、コンテンツである。

2ちゃんのスレを読んでいるから、本の文字を読んでいるようなものだって?
Twitter でコミュニケーションしているから、
会話術には自身があるって?

低い知識しかなかったら、低い景色しか見えないのである。


ハイレベルなものに触れて、脳にストレスを感じて、
初めて成長がある。
筋肉と一緒。
脳にもたくさんの知識というストレスを与えなければ、
想像力を伸ばすことはできないのである。

想像力は何の役に立つだろう?
それはこれまでも触れてきたし、又の機会にも書きたいが、
いじめや、
仕事ができずに陰口叩かれることは、少なくともなくなる。
と、考えている。