消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

ジェンダー論の功罪

「責任のプレッシャーにさらされることを余儀なくされた、男性もまた被害者である、
という論調には疑問がある、
そういう社会を作ったのもまた男性なのである」

という趣旨の記述があり、思わず膝を打ったこのインタビュー、
面白い!!
たしかに!!


「息子介護」に問題が多い理由 『介護する息子たち』 平山亮氏インタビュー - 本多カツヒロ (ライター)
https://blogos.com/outline/221141/


そもそも、「男と女」という、めちゃくちゃデカイ主語でもって対立軸を論じること自体が
大きな間違いなのだ。
この対立軸でみると、
Aの原因がBになければCにある、
Aの悲惨さはBにも類似性がある(だからお互い様である)、
という二元論になってしまう。

男五千万人、
女五千万人いるのだから、
その中に細分化された原因、異分子、階層があるはずなのに、
「男女」の比較をすることで大量の中身を無視してしまいがちなのだ。
そうだよなー。

こと、最近ツイッターなんかで見かける、
「男は」
「女は」
「老人は」
「中国人は」
「韓国人は」
アメリカは」
主語が大きすぎるのは、ほんとに大きな弊害であり、
思考の狭窄を産んでるんだ、という事に、
今更ながら気がついてきた。

先に紹介したインタビューに、曰く、
男性学では、男性はフルタイム労働に従事し家族を養う稼ぎ手としての役割を果たさなくてはならず、そうしたプレッシャーに常に晒されているとよく指摘されます。女性が社会から「女らしさ」を要請されるのと同じく、男性も社会からそうした役割を要請されていると。つまり、男女ともに社会から「男らしさ」「女らしさ」のプレッシャーを受けているという意味では同じ「被害者」である、という主張を男性学のなかによく見かけます。」
(中略)

「最近、女性差別に対して男性差別を訴える声も出てきました。しかし、ここで考えてほしいのは、女性差別の訴えは「男性中心社会」に対する告発であるということです。これに対し、男性差別が「女性中心社会」だから起こっているかといえば、そんなはずはありません。なぜなら、これまで社会で女性が、男性ほどに社会における意思決定権を握ったことはないからです。決定権を有する地位のほとんどをいまだに男性が占めている社会で、男性が不利益を被っているとすれば、それは女性のせいなどではなく、社会の意思決定をしてきた男性たちのせいでしょう。」


いやいや、全く!!
なるほどその通り!!(かもしれない)
ここで私が思うのは、
「そうだよ男だよ」
「いや女だって」
という主語の大きい批判ではない。

「ほんとの原因は…こういう社会を作為的に作ってきた権力者、既得権益者たちであって…
ほとんどの人々は被害者であるのに、
被害者同士でいがみ合うように誘導されてるんじゃなかろうか?」

…という…
…この感想も主語が大きいかも知れないけれども、
そういうことなんじゃないの?
「男がー、女がー」
って言っちゃう人は大至急自分の視点を上方に向けて欲しい。
下のレイヤーでいがみ合ってるお陰で、
批判が届かずに安穏としてる
「偉そうな奴ら」
がきっといるはずだ。

そいつら、マジ「ずるくない」??

(という陰謀論的な、偏見)