消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

結婚について。モリー先生から娘へ。

職場の課題図書として

モリー先生との火曜日」が回ってきた。

タイトルに惹かれて速攻で読んだところ、

もちろん全編、娘に伝えたい話だらけであったのだけれど、

その中からピックアップして、モリー先生が結婚について言及した一言に触れておく。

 

というのも、現代日本において、結婚というイベント、あるいは意識は、

殊更に難しいものになってるのでは無いか、と感じるからだ。

そして、それはTwitter やらのインターネット界隈で顕著であるように思う。

Twitterなどごく一部の人間たちが荒れてるだけじゃん」

と言われるかもしれないが、

もし娘が成人する頃に、こんなTwitter やらのSNSの謎な趣向と思想が蔓延している世界であったなら、

そこはとても裏寂しく人を信頼できない世界だろう、と思い、

成人前から良質な思想とコンテンツに触れさせておきたい、と強く思うのである。

 

…しかし元々どこの親も、我が子に良質なコンテンツだけ与えたい、そんな風に思って育てたはずである。

この2020年において、では、そんな風に育てられた若者たちはどうであろう?

美しく健全で平等な思想を持ち、

世界を良い方向へ進める役を担ってるだろうか?

…まずそもそも、世界は「良く」なってるだろうか?

 

なかなか判断が難しいところである。

ネットスラングと陰湿なコメントの数々を掲示板上に見て「昔は良かった」と言うのは性急であろう。

昔は昔で、表に出ないだけで陰湿な噂話や陰口はあったはずである。

 

そもそも「良い社会」というものはどういうものだろう?

単純明快な世界観など存在するだろうか?

少なくとも…「モリー先生との火曜日」が出版されて多くの年月が経っておきながら

(実に50年近く経過してるらしい)

そこに描かれた美しくも意味深い言葉たちは、

この現代社会において誰一人、たった一語も胸に留めてないように見える。

一つ一つはとても単純で明快な言葉たちであるのに、

どうして我々は考え方と想いを良い形に持っていけていないのだろう?

 

本日のテーマとした「結婚」にしたって、

人類が幾世紀も繰り返してきた仕組みであり、

幾度となくブラッシュアップされてきたこの男女間、家族形成のシステムは、

なんでまた人類5000年の歴史を経てもなお、混迷と混沌を生むモデルになっているのだろう?

ポアンカレ予想フェルマーの最終定理を解くまでに至った人間の叡智は、未だにこんなにも身近な仕組みを「最適化」出来ないでいる…

 

まぁおそらくは、「フェルマーの最終定理を超える難易度」なのだろう。

娘よ、かくも世界は難しい…

 

難しい…

だからって何もヒントがないわけでは無いだろう。

1975年に我々は、

モリー先生との火曜日」

という本を手に入れてるのだから。

(…45年、も前に…)

その中にこんなことが書かれている。

 

「悲しいことだよ。愛する人っていうのは大切なものだからね。君たちだって、とりわけ今の私みたいな歳で(老人で身体が硬直化する不治の病にかかっている)、体の具合が悪くなれば、それが良くわかるだろう。たしかに友達っていうのは素晴らしいものだ。だけどね、咳き込んで眠れないとき、誰かが夜中じゅうそばにいて、慰め、助けてくれなければならないとき、友達はその場にいないんだよ」

 

それから、続けてこういう。

「とはいっても、愛と結婚について当てはまると思う法則がいくつかないわけじゃない。相手を尊重していなければ、トラブルが起こる。妥協を知らなければ、トラブルが起こる。二人の間のことを率直に話さなければトラブルが起こる。人生の価値観が同じでなければトラブルが起こる。価値観は同じであること」

「そしてその価値観で最大のものは、自分の結婚が大事なものだという信念さ」

 

「互いに愛せよ。さもなくば滅びあるのみ」

 

この3つのの言葉には、一見矛盾している3つの要素がある。

愛する人が居なくては救われない

・価値観が同じ人を探して結婚するべき

・愛し合わなくては滅びる(愛する人が居なくては滅びるし、愛し合わない人と結婚しても滅びるというダブルミーニング)

 

これらを並べて聴くと、

「価値観が合う人を慎重に選ばなくちゃいけないけれど、見つからなかったら滅びるじゃん」

という攻略難易度高いゲームに見えてしまう。

 

しかし、このように見方を変えるとどうだろう。

・勢いで相手を選び結婚するのではなく、ちゃんと価値観まで見つめ合いなさい

・そうしてちゃんと合意できる人をちゃんと愛し、目を背けずに結婚生活を送りなさい

 

…なんて事はない、わりと常識的なことを言っているのだ。

一つ目は、多くの人が意識して実践していることだろう。

ささいなキッカケで付き合い始めた恋人と、結婚するか否かについては慎重に考えることだ。

大切なことだ。臆病であるべきでは無いけれど、慎重であるべきだ。

私は同棲をお勧めする。旅行なんかも。

 

そして、結婚するに至ったのであったら、

ちゃんと愛すること。

ちゃんと向き合うこと。

当たり前のことと思わないこと。

感謝すること。

出来ていない人が多い。一番多いのは「求める」人たちだ。

求めてはいけない、愛とは求めるものでは無い。与えるものだ。

与えるから返ってくるのだ。順番を間違えちゃいけない。

 

 

15過ぎたあたりに、娘に伝えたい言葉。

ちゃんと、相手をみなさい。相手を知りなさい。

そして、相手の条件を求めるのではなく、君が愛を与えたい、と思う人と結婚しなさい。

 

 

しかし…追加で思うことがある。

なんとなく、日本国内にいて、インターネットを適当に眺め散らかしてて思うこと。

「異性を拒絶し嘲笑する(ことで恐怖から逃れようとする)輩」

「多国籍の人間を拒絶しレッテルを貼ることで自分と、自分の小さな周囲の優位性を確認したがる輩」

昔から人間はこういう思考でSNSが浮き彫りにしただけなのか、

それとも現代教育やインターネットが歪んだ認知と矮小な想像力を作り出したのか…。

とにかく感じる。

「他者を認められない小さな人間性」と

「他者を罵ることで自らの立ち位置の危うさから目を逸らすもの」を。

ダイバーシティとはよく言ったもので、

人間は(少なくとも日本人は)「多様性理解」というものをまるで持てていない。

これは教育によるものが大きいのか、

社会がそういう風に日本人を育てているのか…

 

こんな中で、最も小さく、原点である人間関係である「結婚」がし難くなるのは当然だろう。

異質なもの、知らないものを排除しようというのは、生物、人間の当然の本能だ。

だから知ろうとしてきたはずである。

沢山の授業と沢山の本とたくさんの情報は、沢山学んで恐怖を減らしていくためのものである。

女を恐れて「まーん」と罵る男たち、

男を罵倒して「女が差別されてる」と憤る女たち。

学びが足りない…本当に足りない。

 

学べ…皆学べ。

娘よ、君もちゃんと多用的に学び、視座を上げるように頑張ってくれ。

年頃の娘に、伝えたい話。