消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

結婚相手、付き合う相手、お見合い、話飛んで就職面接

女性でたまに勘違いしている人がいるけれど、
男も顔で選ばれている。
女性だけがルックスを見られてるわけではない。

「歳を取るほど、自分の顔に責任を持て」
と言われる…とか言われないとか…
まぁわからんけど、例えば中途採用面接してれば、顔を見る。
顔には、表には、色んなものが出る。
履歴書には大袈裟に書くことはできる、場合によっては虚実を書くかもしれない。
見栄を張るかもしれない。
でも顔を見ればわかる。
それは、コミュ力がなくてオドオドしてる、のとは違う。
オドオドしてても、知識量と仕事の能力は垣間見える。

一緒にやっていけそうか、も見える。
面接からしてムカつく奴はいる。
気が合わない奴はいる。
そういう人は、他の企業では面接を通る。
だからやはり、気の合う合わない、なんだと思う。

友達が少ない奴は自然と卑屈になりさらに友達が少なくなる、という悪循環に陥る。
それは可哀想だと思うけれど、やはりそういう雰囲気も出る。
そういう卑屈な奴でも活かせると感じれば採用になる。
逆なら落とす。

「女性を顔で選ぶ」という表現は往々にして誤った認識であり誤解を含んでいる。
「気の合う女性を顔で選ぶ」である。
対男の時と同様に。
美人、と一言で言っても様々な美人がいる。
佐々木希は不合格だけど蒼井優なら合格する職場もあるかもしれない。
婚活サイトで、北川景子を紹介されたら「断る」ボタンを押すけれど、安達祐実だったら「承諾」するかも知れない。

「選ぶ」にしても、
美人なら常に高得点で合格するもんだ(だから差別だ)、という義憤は誤りである。
美人によってはマイナス点になる。
何故ならば、男も相応の自信が無ければ、美人と付き合い、嫁にしようなんて思えないからだ。

人によるけれど、男は男で自分のことをちゃんと採点している。
その自分が抱え切れるだけの相手を探しているのだ。
(なかなか結婚できない人はその採点が誤ってる、わけだけど、そうであっても点数は持っている)

女性も女性で自分の点を感じている。
その点数ならば「これだけの高スペックな男と付き合えるはずだ」と判断選別しているはずである。
独り者は自己採点が誤ってるのは同様であるけれども。

そしていずれにしても、選別は無くならない。
自分の点数があったら、その点数にマッチする相手を選ぶ。

選ぶ。
選ばないわけには行かない。
人生は選択の連続で、「何も考えずに受け入れる」もまた、選択である。
そしてその選択の結果を受け入れて、
時に後悔しながら生きていく。

特に、恋人選びや結婚相手選びという重要な局面では、様々な採点と選択が交錯する。

さて、そんな時に、ただ漫然と「自分の点数がこれだから、これにする」
と選ぶだろうか?
時に我々は、欲しいもののために努力するのではないだろうか?
自分の点数が低かったら、それを少しでも高めて、
目標の、高めのモノをゲットしたい、と。
そのために貯金したり、
そのためにジムに行って身体を鍛えたり、
そのためにスポーツやゲームを練習し、
そのためにギターを練習し、
そのために年収をアップしたり、するのではないだろうか。

欲しいものがあるからがんばる。
ごくごく正しい、至極真っ当な努力である。
美しいほどである。

努力して、
(あるいは時に不正な抜け穴を使って)
金を稼ぎ自分の評価点を挙げた上で、
自分の望む女性を伴侶にしたい、と頑張る男は、何か差別的だろうか?
そんなわきゃない。
欲しいものがあるから努力してる。
立派ではないか。

化粧を工夫し、
体型を維持するために食べたい物を我慢して、
性格も良くあろうと努め、
知識をつけて会話術を磨く。
良いことじゃないか。
銀座の水商売女みたい??
…彼女らがどれだけの価値と単価に評価されてるか考えたら、
明らかに価値である。

人は、選択肢の幅を広げるために努力してるのではなかろうか?
「金のため」とした場合、
金によって得られる選択肢の幅を求めて、金のために努力しているのではなかろうか?

だから、仮に男が、
「一生懸命年収をあげたのだから、こんな若くて美人と結婚したい」
と考えるとしたら、
それはその人の価値観であり、努力の方向性として正しい。

その男性に対して
「女を年齢やルックスで区別するのは差別だ!」
と食ってかかる女がいるとしたら。

100%間違えている。
彼女は、「そこで選択しないという選択」を強いてるのであって、
平等や博愛を標榜してるとおもっているなら間違いだ。
仮にほんとに差別も区別も選択もないなら…
たとえば「統一教会」で適当に結婚相手を強制される手がある。
でも…そのくらいだろう。
「差別」というのはいわれのない嗜好の強制だ。
なにかを「差別」と言うならば、
それは不当なものでなくてはおかしい。

そんなわけで、
こちらの方が書いたブログ記事が炎上したのも、
至極もっともな話である。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190305-00010001-telling-life