消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

眠る力

夜更かししたし休日であるのでたっぷり睡眠を取ろう、
と思っても
最近6時間くらいで目が醒めてしまう。
十代、学生時代だったら平気で10時間、12時間と眠っていたのに。
二十代だってそのぐらい爆睡していたのに。


眠るのにも体力を使うのだという。
年をとると体力が衰え、長時間眠れず起きてしまうようになる。
それがいわゆる老人の早起きである。
眠る、という行為は充電作業のように思われるのに
そこでも体力を消費する「労働」のような側面があるというのは
やはり意外に感じる。

体力を使って、「頑張って」体を休めている、
実はそれが睡眠の正体であるのだ。

結局老齢になるということは
日中起きていても疲れ、早く寝ても疲れて起きる、
そういう疲労の長年に渡る蓄積の残滓なのだ。
悲哀を感じる。

といっても私は加齢、年を取ることに否定的ではない。
ランボーゲーテといった青春詩人らのように
美しき青春を憧憬と一種枯渇をもって賛美したりしない。
美しいけれどね。

「見つけたぞ! 何を 永遠を! それは太陽とつがった海だ」


年をとり、持久力がなくなり、ポンコツになっていくこと。
それは確かに悲しいことだ。
老朽化したパソコンをリプレースするみたいに、
老人たちの役割は若者にとって変わられていく。
それは寂しいことかもしれない。でも悲しいことではない。
我々は、つまり追い出される側は、
かつていたその場所から、次の場所へと進んでいくことが出来るのだから。
追い落とされるのではなく譲り渡して、
ステップアップした領域へ進めるのだから。

もちろんそのためには、次の領域へ進めるだけの資格がいる。
知識と経験と成功体験がいる。
進む準備なく追い出されるときに本当に悲劇がある。
老いは、悲劇ではない。
悲劇は、自らを衰えたと諦めるときに訪れる。


ユダヤ人の詩人、サムエル・ウルマンは「青春の詩」の中で
このように謳っている。
「青春とは人生のある時期をいうのではなく心のもち方である」


長時間睡眠ができなくなり、体の疲れがすっきりと取れず
いつも曇り空みたいにどんよりとした肉体が残る。
そんな体調で若者と競って勝てるわけがない。
我々には我々が進むべき、戦うべき領域がある。

…と達観するには、35歳という年齢は、まだ早いか。
しかし準備をしておかなくては、行く先なく追い出されてしまうだろう。