消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

私の名前はキラキラネームです

近年、自分の子どもに個性的な名前「キラキラネーム」をつける親が増えています。名前にあてる漢字も
年々複雑になっていますが、ここで問題。下に並ぶ12のキラキラネームの読みは? 小学校の教師に
なったつもりで解いてみてください。正解は下の方にあります。

【問題】
1)沖九風
2)緑輝
3)△□一
4)月夢杏
5)男
6)恋恋愛
7)火星
8)姫凜
9)皇帝
10)愛々
11)礼
12)総和

【解答】
1)沖九風(おるざ)、2)緑輝(さふぁいあ)、3)△□一(みよいち)、4)月夢杏(るのあ)、
5)男(あだむ)、6)恋恋愛(れんれこ)、7)火星(まあず)、8)姫凜(ぷりん)、
9)皇帝(しいざあ)、10)愛々(なでぃあ)、11)礼(ぺこ)、12)総和(しぐま)

週刊ポスト2011年11月11日号
http://fugafugaplus.ldblog.jp/archives/4816690.html


有名な「光宙(ぴかちゅう)」がないのがちょっと残念。

さてさて。
・・・さてさて。

笑うのもいい。嘲るのもいい。
私は、少し思うことがある。
最近、大津で起こった中学生男子のいじめ、自殺問題に端を発する
子供たちのイジメ問題についてだ。

大津市の問題が出る以前から、
イジメは10代の間で日常化し、一般化していた。
私は昭和50年代の生まれで
その頃にはもう、イジメという言葉は広まりつつあった。

いや、もっともっと古くからイジメはあった。
イジメという言葉では狭い捉え方になるから、「差別」といおうか。
例えば灰谷健次郎の著書「兎の眼」では
ゴミ処理場で働く親たちの子供たちは、
小学校で邪険に扱われているらしい描写がある。

部落問題をご存知だろうか。
今でこそ日本全域では人民の階級、差別は無い、とされて
それが意識に浸透しつつあるが
歴史的には明確な階級制度があり、差別はシステムとして存在した。
島崎藤村の「破戒」で克明にその差別が描かれている。

差別、区別は日本固有のものではない。
世界中のあらゆるところで、
まるで決まりごとのようにシステムが存在する。
インドのカースト
アメリカの南北戦争となった奴隷制度、
イギリスによる植民地支配、
フランス革命に見る市民と貴族、
中国の官僚と農民、
日本の士農工商武家と貴族、藤原氏などなど・・・

戦争がそうであるように、
差別は人間の特性であり業であり性質であり、
DNA に設定された、切離しようもないプログラムなんじゃないか、と思ってしまう。
それを否定するだけの実例は無い。

平和と平等は幻想かもしれない、という
救いのない前提から話をはじめる。
・・・この前提だと、結論はでないしキラキラネーム関係なくなっちゃうんだけれど。


私がキラキラネームに思うのは、
「親は親の資格があるのか」という、
ずっと、ずっと書き続けている一点にすぎない。
そして毎回引き合いに出す話だけれど、
ギリシャ時代(2500年以上も昔!!)、
大哲学者プラトンは、はなっから親子関係の無駄さを見ぬいて
産まれた子供を国家で集約管理して育てる仕組みを
著作「国家」で描いている。

それから二千有余年、
人は、姓名としての一番根本的で根源的な営みである「子育て」すら
ご自慢の文明と知恵と知識でつくり上げることが出来なかったのかと
さすがに呆れる他ない。
そういや、この二千年の間にはシュタイナー教育なんつうものまで出てきて
ドイツでちょっとした問題児たちを育ててるらしい。
http://kultur.blog96.fc2.com/blog-entry-29.html
http://monologue.chase-dream.com/essay/2005/essay-051208.html


教育という課題が、如何に根源的で、如何に「答えが出ていない」ものか
人類創世記以降、
結局人類がうみだした完成されたシステムって一体何があるんだろうか、と
思わず遠くへ行ってしまいそうになるが
教育問題もその一つとして、

さて、キラキラネーム。

私は、「キラキラネームだからイジメられる、キラキラネームを笑ったからイジメられた」
なんて短絡的な話をするつもりはない。
そういう事例もありそうだが、そんな単純なことはどうでもいい。

俗に言われる、キラキラネームなんてものをつけてしまう親の精神構造、
その観点から類推される、親の教育観、子育て観、
これに非常に大きな恐怖を覚えているのだ。
恐怖、恐怖と言っていい。
キラキラネームというわかりやすい形で現れているのはむしろ救いだが
その奥で、その親達は、一体どんなポリシーと精神と教義をもって
子供たちに指針を示し、規準を示し、世界を示しているのだろうか。
大きな恐怖、狂気を覚えてしまうのだ。

おそらく、内在するヤバさの根深さは半端ない。


そして、そういう名前に対する、子供たちの一つの回答が
下記である。
ぜひ一読してあげて欲しい。すべての大人たちに。

「私の名前はキラキラネームです」ヤフー知恵袋に寄せられた相談
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1488490499

と、それに対するネット上の反応
http://matome.naver.jp/odai/2133896471931878401

就職への影響。
大手企業役員 「正直キラキラネームの学生の採用ためらう」
「そんな名前を付ける親の常識は本人に影響する」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1718977.html


子供は親に反抗しがちなものである。
キラキラネーム出現以前から、「こんな名前、いやだな」
という子供の反発は存在した。
キラキラネームだけを取り上げて頭から文句言っているのではない。
子供の反抗対象の一つに過ぎない。
太郎が嫌だ、竜太じゃカッコ悪い、
どんな名前だって思春期には反発するかもしれない。

その反動は、わけのわからないペンネームにでるかもしれない。
鳳凰院凶真
星☆ポエム
十六夜隼人
江戸川乱歩

名前の内容じゃない。
その名前をつける、親の、精神構造について
私はかなりの危機感を持っている。



皆さんにとって、「名前」とはなんであるだろうか。
自分の名前だけじゃない。
この世界の事物はほとんど名を得ている。名づけされている。
人間がいちいち一つ一つに名をつけていったわけだが、
それらは趣味や好みでつけられた名であっただろうか?

名付けはかつての人類にとっては神聖なものであり
非常に重要なものであった。
名をつけることによって事象、事物は、「既知のもの」となるのである。
未知のものから既知のものへ。
つまり、我々人類側に取り込む行為こそが「名付け」の行為なのである。

名前は神聖すぎるから、
キリスト教ユダヤ教の最大にして唯一神の名前は、
実は近年になるまでわかってなかった。
記号として記され、発音することを赦されてなかった。
我々人類を含めた万物を創造された神、
その神を、我々の言葉に置き換えて我々の側の常識で呼ぶことは、
あまりにも畏れ多いことだったのである。


名前は意外に神聖で重要である。
プログラムの変数名もソフトウェアの機能名も、
いい加減な名前、複数の名前、変な省略形、誤った理解があったら
そもそも会話が成立しない。

「ねぇ、A とって」
「はい、A」
「違うよ! このA じゃなくてあっちのA だよ!」
「わかんねぇよ!」

これならまだマシだが、
仕事上の重要な話し合いの場で語り合った内容の単語に、
決定的な誤解があったらどうする?
PaaS とSaaS とIaaS の言葉の区別がつかずに「えぇまぁ大丈夫ですよ」なんて
応えてしまってたらどうするよ!?


今日の話題は3つ。
名前は大事だよ、と、
親の精神構造疑うぜ?、と、
・・・イジメは、もしかしたら人間に、いや生物にかせられた、業なのかもしれないな、
という適当な話でした。