消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

レギュラーとイレギュラー。日本の判決と量刑に想う。

皆さんは「障害者」に対してどのように考え、感じているだろうか。
まず、あなたは「健常者」だろうか。
それは、そう思い込んでいるだけではないだろうか。
あるいは、今後事故や病気などで、いわゆる障害者側になる可能性について、
どう思うだろうか。

「結局世界は皆精神障害者」、そんな概論で終わらせる気はないものの、
私はこの話に結論を持っていない。
持っていないから問題提起するだけで逃げさせてもらいたい。
社会一人ひとりが考え結論を出さなければならない問題なのかもしれないけれど
こういう問題を真剣に考えている人たちに、任せる他ないじゃないか。

有り体に言えば、例えば自動車の製造部品ラインの話をすれば
異物、不良品が混入されればそれは排除されるし
機能に問題のある車はリコールされる。

人権主義者はこの車の例えに眼の色を変えて
「人間は代替の効く産業生産物ではない! 一人ひとりの命が地球よりも重いのだ!」
と声高に叫ぶだろう。
どうか落ち着いて、となだめつつ、私は問いたい。
車と何が違うのか。
排気ガスのように多くの二酸化炭素を排出し、
石油のように多くの食料を消費し、
使い方を誤れば罪のない人が死ぬ。
何が本当に違うのか。
異物は排除されるべきではないのか。

これは大変危険な全体思想である。
そして私は、「重度発達障害を持つ私の双子の妹」に対し、
排除、という社会的結論を出してほしくない、と思っている。

過去の日本は(しかもわりと最近、戦前くらいまでは)
この全体思想であった。この日本が。
自由と平等と経済の国とあなた達が信じてやまないこの国が、である。
精神疾患発達障害、身体障害、
そのような「異物」である家族は、その家族によって
家の中の奥、あかずの間というか座敷牢というか、
そういうところに隔離され、人目につかぬよう、
静かに放置されていたのである。
緩慢な「終身刑」が当たり前に行われていたのである。



大阪地裁でこのほど、ある判決がおりた。
ぜひこちらを読んでいただきたい。
あなたは何を感じるだろうか。

2012.8.12 07:00

殺人罪に問われたアスペルガー症候群の男に“求刑超え”の判決を下した大阪地裁=大阪市北区
 広汎性発達障害の一種、アスペルガー症候群の男が起こした殺人事件の裁判員裁判で、
「社会に受け皿がなく、再犯の恐れが強い」として、検察側の求刑(懲役16年)を超える
懲役20年の実刑判決が下されたことが、議論を呼んでいる。
判決は「許される限り長期間、刑務所に収容することが社会秩序の維持に資する」とまで言及した。
刑事司法に詳しい有識者裁判員経験者は「一般国民の感覚に沿った妥当な判決」と評価したが、
発達障害者の支援団体などからは「障害への理解が足りない」と批判の声も上がった。(前田武)
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120812/waf12081207000001-n1.htm


長い記事であるが、2~3ページあたりには事件の概要が説明されており
あまりにもひどく身勝手で救いの無い事件であることがわかる。

そもそも、犯罪者に対して「更生の余地」なんてものを
考慮してやる必要なんかあるのだろうか?
我々一人ひとりは、多くの不満を抱えつつ、
社会のルールの不均衡、不正に異を唱えつつ、
誰かをむかついたからと殺したりせず、
イジメたりせず、
不正を働かず、
大体は我慢して暮らしているのである。

それを逸脱し犯罪行為やイジメ(これも犯罪行為だ)する人間は
処罰と排除が行われるのが当然であるべきであって、
その罰則が抑止力となって、我々社会の平和的ルール、マナーが
成立しているはずなのである。

悪を犯した人間に、更生の余地があるべきなのだろうか?

・・・長い議論と思考がいるだろう。
そして、結論はでないだろう。
同情の余地がある犯罪もまた、実在するからだ。

さて。
よく話題になる、「精神疾患による責任能力の欠如」は
同情の余地を残す部分だろうか?
それが余地を残すなら、発達障害は? 身体障害は?
・・・キリがない。
人間が人間をさばくことに、そもそもの限界があるのだろうか。

私は、割りと理想主義的な人間である。
理想主義的な人間は基本的にルールと規準を重んじ、
そこから逸脱するもの、イレギュラーなもの、
「思い通りにいかないもの」を排除したがるものである。