消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

あなたの正しさは本当に正しいのか、に至る一つの小さな事例

先に、障害者に少し関係のあるブログを書いたら、
同じキーワードを使っているということで
他の方のブログが出てきた。

私のブログの記事の主観は、障害者とは全く異なる、
精神疾患を理由に犯罪者を赦す愚」について書いたものなので
全く趣旨が異なるものであるのだけれど
とてもおもしろかったので紹介しておく。

http://blogs.yahoo.co.jp/chiisaiouchi2003/22520588.html

「なんでも自分でやるのが自立ではない。自立は孤立ではない。人間てやっぱり支え合って生きるもの」

この一言に感じ入る。
私は、双子の妹が今施設のようなところで暮らしていて、
市や国からの補助金で「生かして」もらっているのを考えるとき
時に申し訳ない気持ちになることがある。
申し訳ないというほど何もしていない自分がよっぽど申し訳ないのだが
それでも、税金を使ってまで「生かして」もらうというのは、
それが正しいことなのだろうか、と考えてしまう。

けれども、では「健常者」と分類されるであろう我々は
果たして何の支援もなく生きているのだろうか。生きてきたのだろうか。
信号や道路がなかったらこんな生活できているだろうか。
健康保険制度がない中で医者にかかることができただろうか。

「その分税金を払ってる!」と胸を張れるほど、
必要十分な税金を私は払っているのだろうか。
サラリーマンだから負担は多めじゃないかと被害妄想を持っているが。

でもさ、じゃあさ、
「お前はこの世界に、生きてていいよと言われるくらい、役に立ってるのか」
っていう話なんですよ。
そんな人間いるか?
あなた、日本にとって有用な人材で素晴らしい仕事しているから、
だから生きててください、道路と信号と医者と権利を酷使してください、
って言われる人、いるのか??

私と、障害者である私の双子の妹と、
どちらが、世の中の役に立っているのか?
そんなこと誰かが判断できるのか?
役の立ち方が10と100との違いがあるとして、
それでも前者の10は、絶対に無くては困る、とても大切な10だったら
小さな存在意義しかなくても、大きな存在価値だと言えるんじゃないのか!?


先に私がブログに書いた結論(というか問いかけ)と
同じ問いかけになります。
今度は逆側の視点から。
本当に、あなたの判断、考えは正しいのか?
正しさとは何なのか?

とにかく、思考だけは止めないように。
考えよう。思考を止めると、人間の脳みそは硬直するんだ。