消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

BE A MAN

BE A MAN.
男になれ。
なんてことの無いヒトコトだ。
何を意味しているか。
聞く人によって解釈が異なるだろう。
それでいい。百人が百人、同じ物語を共有できるものでもない。
するべきものでもない。
人と人とは捉え方が全く異なる。
脳みそだけ入れ替えたら想像を絶する世界がお互いに見えることだろう。
人類という同種であり、
ほとんど同じタンパク質とアミノ酸で出来上がっている60億強の我々が
まるで異なる感情と感性を持ち、
まるで異なる意志を持つのはなぜだろう。
民主主義の名のもとに手に入れた多数決原理はしかし、
正解や正しさを探すシステムではない。
連帯責任なんでなんとか深刻にやりましょう。

つながり。連帯。深刻さ。

反吐がでる。
誰か一人でも、マイケル・ジャクソンと連帯感や連帯責任や深刻さを
共有していたのだろうか。
・・・や、してたかもしれないのでこれは勢いの発言です。

「何者でもない」
「お前は何者でもない」

先の「BE A MAN」と同様、マイケル・ジャクソンのショートフィルム、
「BAD」内でなんだかわけが分からず出てくるセリフの一つ。
わけが分からなくてもいい。意味がわからなくてもいい。
何を思うか。
結局表現者側と受け手側の間では約束事なんて成立しない。

どんだけアーティスト側が「感じろ」と命令したって
わからないものはわからないし感じ取れないものは知らないもの。
エヴァンゲリオンTV版のエンディングを「駄作」と取る人もいれば
傑作と取る人もいる。


年末、NHK がふと、特番でマイケル・ジャクソンの特集を流した。
「BAD のすべて」と題した番組は、
世界で最も売れたアルバム「Thriller」発売後からの、
「BAD」制作に関わる裏話を関わった人たちが語る番組であった。
一曲一曲の当時を懐かしそうに思い出しながら語る関係者の声に
当時の画像がフラッシュバックする。
我々聴衆が知るよしも無い産みの苦しみと、
それと同時に、なんであろう、25周年、25年前の出来事を
全く昨日の出来事のように、「今まさに起こっている出来事のように」
語る演出家、作曲家、演奏した人、ダンスを作った人たち・・・

マイケル・ジャクソンという稀有の存在によって生み出されたのは事実だが
それは彼一人の所業ではない。
マイケル自身がビデオの中で語っていた。
「僕は何もしていない。神様からの贈り物だ」
あるいは、たくさんの人々が何かを実現したのだ。形にしたのだ。

考えてみれば我々が何かしらする時に、純粋に一人の力で成し遂げるものなど少ない。
ゼロに近い。ほとんどない。全くない。

信じられないほど売れたアルバム「Thriller」を背負って、
そのプレッシャーの中で
「もっとすごいアルバムを作ってるんだ、参加しないか」と、
クインシー・ジョーンズが言う。
あるいは別の人が言う。
そんな事を言える人々が数年に及ぶ「産みの苦しみ」の中に、
もがきながらもエキサイティングな時を過ごし
我々に3000円程度の金額で素晴らしい音楽を提供してくれているのだ。

マイケル・ジャクソンの曲を好きな人も嫌いな人もいる。
ゲイだロリだという噂も一部は(多分半分以上は)本当だろうし、
それを性的に拒絶したくなる気持ちもわかる。正しい。
だけど多くの人を動かしてアルバム「BAD」を創りだしたのは、
間違いなくマイケル・ジャクソンだったのだ。
出演者数はさっぱりわからないが、その情熱の矛先は一点、
彼に向いていた。
デモテープは65本、期間にして実に4年(それ以上?)、
オクラ入りの曲は数しれぬ。
その苦労はかりしれぬ。
それでも彼らはBAD を作りたいと思ったのだ。マイケルと一緒に。
その思いが剣山の針のように無数に突き刺さってくる番組だった。
すごかった。
そして最後に、彼がもうこの世にいないことを思い出させられる、
皆が口をつぐむ、
涙ぐむ、
テレビを見ていて私はこのシーンに衝撃を覚えた。
「マイケルの死後の収録だったんだ」と。
出演者、総勢20名ほどいただろうか、
彼らはインタビューに答えながらいきいきと、ハツラツと、
快活に、まるで昨日の出来事のように、BAD 制作のその日のこと、
発生したハプニング、ほとんどミラクルのような出来事を語っていたのに、
それらの言葉がすべて25年も経過した後のものであり、
マイケル・ジャクソンがいない世界で語られた言葉であったこと。

アメリカ人だから、と割りきっていいのかわからないけれど、
彼らは「楽しかったことは楽しく」「悲しかったことは悲しく」
語ることができるというか、心底そういう感情で向き合えるらしい。
当たり前に聞こえるかもしれないけれど、湿っぽい日本人の感性とはちょっと違う。
日本人は、少なくとも私は、全部を「思い出」にしてしまう傾向がある。
良かったことも辛かったことも胸にこみ上げて鼻の奥がツンとするんだ。
BAD 製作者たちの言葉にはそれがなくて、
いやツンツンしまくってたのかもしれないけれど、
BAD 制作のホットでエキサイティングでアヴァンギャルドな日々を思い出して
たのしくって仕方がなかった、
そういう風に語るのだ。

DANGEROUS の制作ビデオを見た時(もちろんMJ は存命でツアー中だった)、
そのテンションと同じようにさえ見えた。
だからこそ、彼の不在を思い出した時にこみ上げる想いはまた、
我々聴衆の想像を絶するものであるのだろうけれど。
何しろ、彼らは作品と感性の中で永遠にリアルタイムにそのセッションを覚えていながら、
二度とそれを体験できないことを毎回事実としてつきつけられるのだから。

すごい体験だ。心が幾つあっても耐えられそうにない。
だからといってライトな制作がやたらとまかり通って無いか。
最近の音楽シーンを見ているとそう思う。
でも多分、私が追いつけていないだけで、
もう音楽シーンはテレビや年末特番やランキングには存在しないのだろうな。
全然別のところでミラクルが起こっているに違いない。

BE A MAN
マーティン・スコセッシ監督が一体全体どんな意図でこのセリフを入れたのかわからん。
歌詞にも出てこないし、軽口のようにも見える。
高校生の頃にこのビデオクリップを見た時にはそこは飛ばしていた。
マイケルのダンスと歌が見たかったから。

けれどもそのセリフは確かに存在し、適当な脚本であったかもしれないけれども
さも意味ありげに響いてくる。
1分そこそこのあのシーン、特急から地下鉄に移るあのシーンに意味を見出すのは人それぞれだ、
我々それぞれだ、
政権交代の意味が我々それぞれであるように。
だから、これは、本当に個人的なことなんだけれど、

BE A MAN.
あぁ、なっちゃろうじゃないか、2013、
そんな風に思ってしまう個人もいるわけなんだ。

や、それにしても、好きなミュージシャンがいるってのは、最高な人生体験だから、
マイケルにかぎらず、誰かにほんとに心を持ってかれたら、
幸運な出来事として、音楽を聞こう。
それがAKB48 であってもいいとは思うんだ。いいとは。レコ大の曲は全く良くなかったけど。
でも音楽は人間の根源的な魂を揺さぶるものだから、いい音楽を聞いて、いい酒を飲んで、
イイ涙を流そう。
もし、ミスチルにもAKB にも嵐にもBz にも、そんなにこなかったら、
マイケル・ジャクソンって選択肢もあると思うよ。