男の容量
ふと、桐壺(源氏物語)を読んで思うことは、
男なん、ミカドのように後宮をもって
めったやたらと女をあてがわれ、
選び放題酒池肉林の中にあっても、
求めるものは一つの愛、であるのかもなぁ、と。
その「一つ」が、
わりあい最初に決めたものに収まらない傾向が、
「不倫は文化である」
などと言葉にしてしまう、男の性、
ということになるのだろうが、
それにしたって余りに特性が限定的すぎる。
即ち、ですよ?
桐壺から引くなら、男は、例え後宮に百の美女を囲っていても、
心通じる一人と昼夜を共にしたい、ということ。
A の家で情事を楽しみ、寝物語に語ったことを、
次はB の家で、翌日はC を抱きながら、
同じ話をしなけりゃならんと思うと
これははっきりと胸を張って、めんどくさいと言えるだろう。
では、だったら、一人の相手を生涯のつがいとし、
その相手と共白髪の生えるまで
経験と話題を共有して行けばいいのに、
わざわざ不倫というおかしな遊びに興じるのである。
つくづくの無い物ねだり、
つくづくの節操の無さである。
ちなみに、不倫による背徳感が恋愛のスパイスになって、
吊り橋効果の約26倍にも及ぶ「恋、しがちな」
錯覚を呼び起こすことは心理学、統計学的に現れてるので、
お互い惑わされぬよう気をつけたい次第である。
こうして少し紐解くだけでも、
男の節操のなさと、キャパシティの狭さが明確に健在することがわかる。
一人じゃダメ、沢山でもダメ、2、3人、
と言う、余りにも嫌な数をついてくるのは神のイタズラか。
世の既婚男性の悲鳴を聞いていると、結婚生活から逃げ出したくなる連中も多くいるらしい。
さもありなん、とは思うが、
たった二つの家庭すら幸せにできない不倫の甲斐性なしには、
文化云々口はぼったい台詞ははいてほしくないものである。
そして、
ハーレムを「維持」することの大変さ、を、絵空事ではなく
模範例としていただきたい
男なん、ミカドのように後宮をもって
めったやたらと女をあてがわれ、
選び放題酒池肉林の中にあっても、
求めるものは一つの愛、であるのかもなぁ、と。
その「一つ」が、
わりあい最初に決めたものに収まらない傾向が、
「不倫は文化である」
などと言葉にしてしまう、男の性、
ということになるのだろうが、
それにしたって余りに特性が限定的すぎる。
即ち、ですよ?
桐壺から引くなら、男は、例え後宮に百の美女を囲っていても、
心通じる一人と昼夜を共にしたい、ということ。
A の家で情事を楽しみ、寝物語に語ったことを、
次はB の家で、翌日はC を抱きながら、
同じ話をしなけりゃならんと思うと
これははっきりと胸を張って、めんどくさいと言えるだろう。
では、だったら、一人の相手を生涯のつがいとし、
その相手と共白髪の生えるまで
経験と話題を共有して行けばいいのに、
わざわざ不倫というおかしな遊びに興じるのである。
つくづくの無い物ねだり、
つくづくの節操の無さである。
ちなみに、不倫による背徳感が恋愛のスパイスになって、
吊り橋効果の約26倍にも及ぶ「恋、しがちな」
錯覚を呼び起こすことは心理学、統計学的に現れてるので、
お互い惑わされぬよう気をつけたい次第である。
こうして少し紐解くだけでも、
男の節操のなさと、キャパシティの狭さが明確に健在することがわかる。
一人じゃダメ、沢山でもダメ、2、3人、
と言う、余りにも嫌な数をついてくるのは神のイタズラか。
世の既婚男性の悲鳴を聞いていると、結婚生活から逃げ出したくなる連中も多くいるらしい。
さもありなん、とは思うが、
たった二つの家庭すら幸せにできない不倫の甲斐性なしには、
文化云々口はぼったい台詞ははいてほしくないものである。
そして、
ハーレムを「維持」することの大変さ、を、絵空事ではなく
模範例としていただきたい