消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

男の容量

ふと、桐壺(源氏物語)を読んで思うことは、
男なん、ミカドのように後宮をもって
めったやたらと女をあてがわれ、
選び放題酒池肉林の中にあっても、
求めるものは一つの愛、であるのかもなぁ、と。

その「一つ」が、
わりあい最初に決めたものに収まらない傾向が、
「不倫は文化である」
などと言葉にしてしまう、男の性、
ということになるのだろうが、
それにしたって余りに特性が限定的すぎる。

即ち、ですよ?
桐壺から引くなら、男は、例え後宮に百の美女を囲っていても、
心通じる一人と昼夜を共にしたい、ということ。
A の家で情事を楽しみ、寝物語に語ったことを、
次はB の家で、翌日はC を抱きながら、
同じ話をしなけりゃならんと思うと
これははっきりと胸を張って、めんどくさいと言えるだろう。

では、だったら、一人の相手を生涯のつがいとし、
その相手と共白髪の生えるまで
経験と話題を共有して行けばいいのに、
わざわざ不倫というおかしな遊びに興じるのである。

つくづくの無い物ねだり、
つくづくの節操の無さである。

ちなみに、不倫による背徳感が恋愛のスパイスになって、
吊り橋効果の約26倍にも及ぶ「恋、しがちな」
錯覚を呼び起こすことは心理学、統計学的に現れてるので、
お互い惑わされぬよう気をつけたい次第である。


こうして少し紐解くだけでも、
男の節操のなさと、キャパシティの狭さが明確に健在することがわかる。
一人じゃダメ、沢山でもダメ、2、3人、
と言う、余りにも嫌な数をついてくるのは神のイタズラか。

世の既婚男性の悲鳴を聞いていると、結婚生活から逃げ出したくなる連中も多くいるらしい。
さもありなん、とは思うが、
たった二つの家庭すら幸せにできない不倫の甲斐性なしには、
文化云々口はぼったい台詞ははいてほしくないものである。

そして、
ハーレムを「維持」することの大変さ、を、絵空事ではなく
模範例としていただきたい