消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

霊が見える、ということ

幸か不幸か、私は霊魂、幽霊、お化け、物の怪、
そういったこの世ならざるもの、を見る能力は無い。
だからそう言ったもの、
目に見えない世界とか存在とかについて、
「ある」とも「無い」ともどちらの立場も取れない。
何しろ「ある(いる)」と言ったら、見たのか!?
と問われるし、
「無い」と言い切っても、証明できない。
悪魔の証明

だから、有る無しの話、ではない。
こんな可能性はあるだろうか? という話。

世界は個々人のごくごく小さな「認識」でできている。
どんなに物理学が発達し科学が詳細化し
世界の仕組みと謎を解いて行っても、
「私には見える」
「私には感じる」
は絶対崩せない。
(最近では「私は聞こえない」を論破することが困難、
なんて騒動もあったが)

認識なのである。
極端なこと言ってしまえば、
脳の信号の汲み取り方であって、
そう思ってしまったら、
脳がそこに居ると解釈してしまったら、
そこには他者には見えない存在がいるのである。
人には聞こえない声がするのである。

魂や物の怪の霊気が、
脳や五感を特殊な波長で揺らし、刺激してるかもしれない。
それはわからん。
それが、外的な刺激な、
内部的な異常なのか、
わからない。

そう。
脳の異常、
角膜の異常、
聴覚の異常、
そういう、内的な原因、
各個人の障害として「見えて」しまうことはないだろうか?

部屋に緑色の地蔵が浮いてるよー、とか、
あの人のオーラが見える、とか。
人間ほどの精密で高度で、ものすごく複雑な生き物は、
どっかぶつけたり、
母親が過剰摂取した薬品や、
単なる睡眠不足とかで、
認識能力に誤作動が起こることって、
全然十分考えられるんじゃなかろうか?

それが百鬼夜行を描かせた根本原因だったり、しないだろうか。

まぁどちらにしても、
見なくて済むなら、見たくない。
怖いのは嫌だもんね。