消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

会社備品購入! それは! 神棚!

人類にとって「信仰」とは何か。
色んな捉え方があっていいことだけど、
ひとつ、絶対的に変わらないことを「信仰」に含めておくと、
「心の拠り所」なんですよね。

世界にはあまりにも理不尽なこと、荒唐無稽なこと、意味のわからないこと、
理屈が成り立たないこと、常識と逆であること、裏切り、誤認識、考慮漏れ、
様々なことが複合して「現象」として具現化している。
さらにこれに天変地異が加わる。今朝の地震なんかすごかったですよねぇ。
(2014/5/5 午前5時、都心震度5弱http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140505/t10014225331000.html)


天変地異、天候、地震、気象、海流、
この辺は研究が進められているみたいですが
それでも「わかった!」には程遠いわけで、
人々は事実上「訳の分からない出来事」にさらされながらも
日々何か決断をして実施をしているわけですよ。
それでもいくつもの準備をすべてあざ笑うかのように、
遠足が土砂降りになったりするわけじゃないですか。

そういう時、どう考えるか。
「あー、まぁ、しょうがないよね、天気のことだもんね」
私は、これが信仰の根源であり、基本だと思っているのです。
ざっくばらんに区分してしまえば、「何かのせいにして心の負荷を下げ」ているのです。

例えば、遠足計画に対してその大切な土曜日に土砂降りの雨に見舞われたとします。
そんな時に主催者に対して、
・統計的に雨の確率を認識、回避していたのか
・数週間ないし数ヶ月の気候、天候の動向を分析し、雨が降る可能性を事前認識していたのか
・雨がふることに対して抑止する対策、その効果測定は行っていたのか(雨乞い、たくさんお湯をわかす、等々)
・その雨はアメリカ軍による人為的な攻撃ではなかったか
・雨のリスクをどの程度評価し、リカバリープランを構築していたのか

最後の二つはちょっと眉唾にしても、
すべてすべてを人間、計画した主催者、幹事に責任求められても
辛いだけじゃないですか。
苦しいだけじゃないですか。
人間が一番「あぁしょうがないね」と思えるのって天変地異なのですが
その天変地異に対しては逆の見方をすると、最初から受け入れる心持ちになってるじゃないですか。

それが「信仰」の、かなりプリミティブな衝動なのではないでしょうかね。


神話誕生には色々な歴史的事実、寓意、反省、隠語が含まれていますが、
もう一つの大きな要素に、「人智及ばぬ大きな力、事象に対しては、神意としてひれ伏すしか無い」
という、プリミティブなおそれ、「自分のせいじゃない」が含まれています。
雷は雷神トールが、山火事には火の悪魔イフリートが、
海の嵐にはリバイアサンが絡んでるものなんです。だから俺のせいじゃねぇんです。
ひれ伏すしか無い。

そして、この「ひれ伏すしか無い」という完全に参りましたの発想から人は逆転的思考を身につけ、
「ひれ伏せば赦してくれるんじゃね?」「崇めれば回避できるんじゃね?」という
メリットを導く思考にたどり着くのです。
これが信仰心というものでしょう。
信じられないほどの我田引水ですが、
「海が大いに荒れるのは海神ポセイドンが処女の生贄を求めてリバイアサンを遣わすから」
→ だったら処女を生贄に放り込んでおけば海は荒れなくて平穏無事に航海できるんじゃね?

ものすごーいことですよこれは。
自分で理由作って自分でそれに縛られるんですから。
でもそれが「俺のせいじゃない」感を補填してくれているのです。
処女の乙女を供物に捧げたのだから我々村人はやることはやった。あとは神のみこころのままに。
そうやって「やることやったから後は誰か(何か)のせい」にすることで、
人は心の負荷、責任感から逃れていたのです。
それが宗教。それが信仰。それが怖れの本質。


ギリシャ神話からぐっと時を経た現代、
我々の神はドコに宿りナニをしでかしてくれるだろうか?

…そうですね。
私のように、いわゆるIT 関連事業に携わり、
システムだのプログラムなどに触れていると、神の存在を感じることがままありますよ。

「どうかバグが見つかりませんように…」
祈るような気持ちでリリースされていく製品を見守る気持ち。
「あぁ、これバグだけどお客様が怒らないといいなぁ」
なんの根拠も持てないまま、事態が自然収束することを祈る気持ち。
これらすべての場面に、神が宿ってます。


今、私は製品のサポートデスクを見る立場として、
神の力を、たとえ我田引水であっても、
良きように、せめて悪くならないように導かせていただくしかないのです。
そのために生贄が必要というのであれば、
いくらでも生贄(金銭的な)を捧げますよ。えぇ。金で解決するならね。


金で解決しないなら、
神妙な心持ちでもって、
神棚を飾り、
神主に祓い清めてもらった由緒あるお守りをもって、
会社事務所にうやうやしく飾り奉り参るのは、
ごく自然な人の心の動き、信仰心というものですよ。

あぁ。私もやっと信仰心というものを持つことができました、と。
こういうのを「気にしない」って一蹴しちゃう人はまだまだ人間が若いんですね。
気にするとかじゃないんです。「やれることはやった」と感じることが大事なんです。
御利益を信じる信じないじゃないんです。
何かをした、という行動そのものが、心を穏やかにする境地。
それが信心なのです。
見返り有無や効果の有無や、気にする、信じるってレベルで信仰や迷信を語ってる時点で、若い。
若いんですよ。
(思慮が足りない、って意味で言ってます)


なので、
買います。
会社用に、
神棚。



安い?