消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

娚の一生/西炯子

月刊フラワーズ』(小学館)にて2008年9月号から2010年2月号まで連載された作品。
時を隔てて、2015年公開予定で映画化されるとのこと。
主人公の堂薗つぐみに榮倉奈々、相手役となる海江田醇(じゅん)は豊川悦司
イメージ云々言ってもしょうがないが、
あまり日にあたってるとは言えない西炯子の作品が大掛かりな形で公開されるのは
喜ばしいことである。



あまり日にあたらず、と言いながらも、当『娚の一生』は累計150万部、
このマンガがすごい!2010」にて第5位に選ばれているのだから
けしてマイナーなマンガ家では無い。多分。


主人公の堂薗つぐみは三十路超えの独り身の女。
バリバリのキャリアウーマンであったが、私生活面で疲れて休養をとって田舎に帰った。
帰省した祖母が急逝したところから物語が始まる。


「うっかりしていたら10数年。東京で発電の仕事をしていた私が
ひとりになりたくて帰っていた祖母宅。
その祖母が亡くなり、私が家を預かることになった。
その家にはもうひとり、居住権を主張するどあつかましい男がいる」


少女マンガの特性として、
単発読み切りが多い中で書かれる連載ものは
毎話毎話説明ナレーションが入って結構鬱陶しい。
夏目友人帳』で結構イラッとしましたなぁ。ストレスかなぁ。


さて、少女マンガですから、
この語りにある「どあつかましい男」と当然の如く惚れた腫れたがあるわけです。
そこを物語の基軸に据えながらやたらすったもんだがあるのですが
それらすったもんだがまるで目に入ってこないほど、
この二人(堂薗つぐみと海江田醇)のやり取りに惹かれてゆく作品です。
誘拐事件とか町が壊滅するくらいの大地震とか、すっごいスペクタクルだけど、
そんな盛り上げ方しなくても全然問題ない作品だったなぁ。


8月15日、終戦。お盆。
もともと、日本の「お盆」は7/15 を周辺とした日取りであったが、
日本がグレゴリオ暦を採用した明治6年以降、
以下のような行事の分裂があった(ウィキペディアより)。

旧暦7月15日(旧盆) - 沖縄・奄美地方など
新暦7月15日(もしくは前後の土日) - 東京・横浜・静岡旧市街地、函館[10]、金沢旧市街地など
新暦8月15日(月遅れの盆。2.の地方では旧盆とも) - ほぼ全国的
その他(8月1日など)

私は、誰に聞いたのか忘れたけれど、
都心部の人間が田舎に帰るにあたり、盆の日程がかぶってしまうと困ることから、
都心部を7/15、地方を8/15 とずらすようにした、と聞いた。
祭日をずらしてしまうのがいい事なのかちょっと気になってしまうけれど
実際祝祭日の異動なんかはしょっちゅうやっているので、こだわりすぎることもないようである。
正月だってもともと違ったしね。

明治6年以降からの風習であるから、
私なんかには当然「お盆=8/15」であって、
子供の頃は毎年親に連れられて新潟の墓参りに連れて行かれた。
祖先、墓参りというものの意味がわからない一方で、
親族が大挙して集まり、車8台位に分乗して、
新潟は新発田の不思議な風習「ぼんぼり」を墓に備え付けて祈ると
やはり背の伸びる神妙さを感じたものである。

夏の濃い空と水田の色、
寺のお堂の天井の高い涼しさ、
すいかと麦茶と近所の銘菓のかき氷。
親戚たちが賑やかに集まるこのイベントと、
それが疲れて妙に静かになる夏の夕暮れは
私の夏の原体験であり、
その風習が途絶えて20年近くたつ今でも
この時期になると妙に郷愁を誘うものである。

そんな季節柄のせいもあったのかもしれない。
娚の一生』はまさにそんな、夏と死と葬式が舞台となっているため
この時期読むと異様に染みて全巻一気に通読した。
もともと全三巻プラス後日譚一巻の短さなので読みやすいこともある。
(それゆえ、ストーリーがさっさと進むので気持ちがいい。『めぞん一刻』のような大作ではこうはいかなかった)


主人公、堂薗つぐみは35歳あたりのキャリアウーマンである。
この年齢の鉄板ネタは「周囲が結婚しろとうるさくて苛ついてる」であり、
一方で「恋なんて、男なんて」と思ってる「枯れた」人生観である。
晩婚状態にしているのは国の失政、
既得権益にしがみつく老人たちの弊害によるところが大きいが
まぁこの作品の感想でそれを語ってもしょうがない。

そこに現れる男、海江田醇は哲学で名を馳せる教授で学級の徒。
五十代もいくらかすぎた頃と推定される。
わかる人ならぱっと見でわかるが、枯れ専女子の心に即座にヒットするビジュアルである。
メガネ、痩せてる、毅然としている。
学者、と言われれば「あぁ」となんとなく想像するスマートさであるが、
しかし実際にこんな紳士然とした教授に大学で会ったことは無い。
大和撫子と同様、空想上の産物、ユニコーンと同義のファンタジーであろう。


教授・海江田はつぐみの祖母に片思いしていた。
どの組み合わせも年齢差が激しい。
海江田とつぐみは二十年強、
海江田と祖母も三十強、年齢差があったと想定される。
歳の差は物語に彩りをかなり添えているが、
この物語の妙は歳の差には集約しない。

メインテーマは、つぐみの自主性であると思う。
それはタイトル「娚」に集約されている。
音読みはナン、訓読みは、めおと。
「おとこ」とは読まない。

ただ、タイトルのふりがなに「おとこ」とあるので
当然、海江田醇の一生だろう、と思って読むのだが、おそらくは違う。
堂薗つぐみのことだ。

作中に、うろ覚えだがこんな台詞がある。
(つるっと読み流してしまう台詞だからどこにあったか思い出せない)
「(女は)家をもったらもう男だ」か、
「(女は)仕事をしてたらもう男だ」
作者はこの文字、女と男を合わせた文字に、
「もう女ではなく男だ」と扱われる主人公の状態と、
しかしそれが望んでいる一生ではない、そもそもそんな形で決めつけてほしくない、
という意味を込め(一生というスパンで見れば行き遅れの35歳という状態も
ただの一通過点に過ぎず、いろんなことが起こるものなのだ、という意味を込め)
娚の一生」とタイトルにしたのだろう。
もしかしたら最初から「めおと」という訓読みに、ストーリーの展開を暗示させてたのかもしれない。


つぐみはかなり仕事ができる女性として描かれ、
同期の出世頭、あっという間に同期の上司、
という設定から、かなりのキャリアウーマンであるように見える。
しかし全般に見せる性格や行動様式はどこまでもどこまでも女性らしい。
「仕事をしてても女なんです!」
という叫び、と捉えるのはうがってるだろうか。

仕事ができて課長職についてる彼女だが、
「恋より仕事」という感じではないようで、
浮き名を流した恋愛遍歴が語られる(そんなタイプには見えないんだけど)。
「すげー結婚したがってたくせにさ、入社当時から彼女持ちや妻持ちにばっか入れあげてさー」
と同期に軽口叩かれる。
その恋愛当時の主人公の心理を計る場面は出てこないが、
最後の大失恋である妻子持ちの男とも、結婚というキーワードにかなり縛られていたらしいことは
何度も語られることになる。

仕事だけに生きたいわけじゃなかった。
恋もし、結婚にも憧れていた。
その一方で、大失恋と年齢的な影響だろう、
「あたしは仕事が好き、仕事が楽しい、それがあれば幸せじゃん、恋愛は面倒じゃん」
という心相描写も出てきて、
男女の仲に疲弊し、心を閉ざしていることをくどいほど読者に見せてくる。

多分…ここは同年代の女性の共感を呼ぶように思うのだけれど、どうだろう?
女性、仕事、未婚、三十路の黄金パターンだから。
『サプリ』もそんなでした。
私の嫁が集めてくるマンガの一つのパターンだな。

「仕事か恋か」
誰かに問われているわけでもなかろうに、そういうテーマ性が
働く女性の中にはある。
そして、「誰かに問われているわけでもないのに」と書く男の私の無神経さが、
「まだ結婚しないの?」という心ない責め苦となり、
彼女らをより「仕事か恋か」の二択に縛り付けていくのである。

そういえば安倍政権が「女性管理職を全体の3割へ」という
筋違いの方向性をかかげて活動していた。
(十分の一程度の未達らしい。そんな成果をよく表に出せるな…)
NHK がこの安倍政権の指針と活動を取り上げた時、
視聴者の言葉として「ただ数を増やすのではなく自然と増える国づくり、施策を」
というあまりに正論な言葉を出していて笑ってしまった。
識者らが難しげな顔を並べて議論しようというその席の空虚さを
たったの一言で一蹴したのは痛快であった。
(でも誰だって、考えればわかるよね。少子化って、産むことで解決するわけじゃないもんね)


別にどちらかを取らなくてはならないわけではない。
幸せの形を決めつける必要はない。
誰かの価値観に縛られる必要はない。
「あたし自身の決めつけに縛られる必要はない」
主人公は最終的に価値観のパラダイムシフトによって停滞していた人生を進める、ようである。
(この辺はちょっと私も捉え切れてるわけでもないんだけれど。そんな感じ)


その主人公を導く男、海江田醇はしかし、
哲学学者という肩書の割りには含蓄めいたことももっともらしい説教もしない。
少女マンガらしく想いがすれ違い言葉が足りずやきもきさせる。
(…私は少女マンガにかなりの偏見を持っているようだ。
次回のブログでステレオタイプの型にはめることを批判する内容を書こうと思ってたのに
私こそがステレオタイプのようだ)

五十路の男らしくどっしり構えているかと思えばそうではない。
ひょうひょうと物事や会話をあしらっていくのだが、
歳相応というよりも、京都人らしい底意のあるあしらい方という感じだ。
(ここでもステレオタイプな決めつけ、申し訳ない)

じゃあなんでこの物語は、ここまで人を(私を)惹きつけ、
台詞のはしばしがじっくりと染みるのだろう。


夏休み、私は友人らと恒例の伊豆旅行にでかけ、
寸暇を惜しんで海遊びに興じた。
年々老いが身体をきしませるが、
透明な海水の中に広がる圧倒的な彩りと魚たちの戯れが
それこそドクターフィッシュのように私の心の疲れをついばんでいった。

帰京後、1日。
ぽっかりあいた夏休み最後の日を
午前中はメールの整理に費やして、午後、
何の気なしに開いた本がこれであった。

お盆休みがまだ続いているような、どこかのんびりと進む時間。
マンガの舞台と現実の時間が妙にフィットした。
そのまま本を持ってタバコを買いに行った。
…何しろ海江田醇がめちゃくちゃにタバコを吸う。
ちょっと普通じゃないくらいに吸う。
吸ってるコマ数は『ガラスの仮面』の白目のシーンに肉迫する。
さすがに吸いたくなった。

宮﨑駿監督作品『風立ちぬ』にて、
タバコを吸うシーンに嫌煙団体からクレームが入ったと聞く。
いくらなんでも神経質すぎやしないか、と思って呆れていたが
確かに…タバコを吸ってるところを見ると吸いたくなる、こともあるのかもしれない。
『あぶない刑事』とか観たら吸いたくなるのだろうか。


私は夏の暑さが好きだ。
海が好き、ということと無関係ではないのかもしれないが、
焦がすように照りつける太陽で否応にもテンションが上がる夏型人間だ。
もちろん汗もかくしうんざりすることもある。
(外出後のトイレとか、最悪だ。トイレットペーパーが溶ける)
しかし、どうにもクーラーが苦手であって、
夏の暑い中で汗をかきながらスイカを食べていた、
その原体験が私を外読書へ引っ張りだした。

本当は家のクーラーをきればいいのだけれど、
ネコのためにクーラーを入れておくように動物病院から指導されている。
電気料金値上げが家計にボディーブローのように効いている。
せめて家の電気は使わないでおこう。
外でタバコを吸いながら本を読んだ。

路地裏の陰で直射日光を避けながらタバコをふかして読書に励む俺、超かっこいい。
すっかりシチュエーションに酔いながら通読した。


主人公の心の迷いと、断捨離を決断させた動きは何だったのだろう。
ここで分析することは私にはよくできない。
数十年、年上の老母に片思いしてきた哲学者の恋心をくすぐったものは
何だったのだろう。
これもいまいちさっぱりわからない。
でもこの物語は、納得度とか共感とかではない、
つぐみと海江田醇を見守る目だけで成立する。
それは二人だけの恋物語であるから、
読者の自分が意見したり納得したりする必要はない。

とても静かでゆっくりしてて、
昼下がりの夏の間延びした時間に、とても似合う二人の恋物語
解決とか筋が通ってるとかは特に必要ない。
君に届く必要も無い。あれは長すぎだ。

好き勝手に書いていて、『娚の一生』について何を書きたかったのか全然わからなくなったけど、
このブログを読んだ人がいるならば、読んでみてはいかがだろうか。
…多分映画はコケるから、原作を先に読んでおいてはどうだろうか。
(逆かな。でもどうだろう)