消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

考察「宗教」②

宗教は、「人の心の隙間を埋めるもの」であると思う。まずそう、定義する。

隙間、空白地帯。
例えば、死。絶対的に避けられないものでありながら、それが何を意味するのか、どんな状態なのか
現世ではついにつかみきれない現象の代表だろう。

また、生。
「自らが生まれたこと」それ自体の意味づけを、自分ですることができる人
あるいは他人から与えてもらうことができる人はいるとしても、
真実生まれた理由を知りえることは、ない。
「なぜ、生まれたのか?」

両親がセックスしたからに他ならないこの事実も、
自我を持つ人間にとって、それが何故自分なのか、何億と言う男女の組み合わせの、何億と言う精子の選別で
なぜ自分が選び取られたのかが、わからない。

石器時代、電気を知らない人間が雷を恐れ、
起こし方のわからない火を使い
理由のわからないまま交尾し
出産と成長という奇跡を目の当たりにしていたとき、

それらも当時の人知を超えた、奇跡だった。神の所業、あるいは神そのものとされた。
現代においてひとつひとつ原理が解明され、人の手の範囲内に事象はおさめられてゆくけれども
「生と死」「恐怖」「孤独」といった「隙間」は、
まだ文明の利器で解決されていない分野である。

けして知りえない物事に対して、人間は無関心でいられるだろうか。
死の恐怖というものを、無関心で克服できるものだろうか。
死、孤独、生の意義の喪失、
そういった恐怖を抱えて生きていけるものであろうか?

少なくとも現代の科学時代においてさえも、生と死の問題を、象徴としてでも受け止められるのは
神だけであろう。
それ以外の事柄に埋められない隙間を感じる人たちも、
宗教の門を叩くようである。

周知のように、現代においては真剣に宗教に取り組んでいる人は少ない。
かつての歴史の中では国民総キリスト教
武士から庶民から皆仏壇に手を合わせる、
そういう時代もあった。

もちろん現代においても多数の人が宗教に取り組んでいる。
「かつてほど」ではない、という比較。
これは人の心の隙間が減った事を意味しているだろうか?