消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

「さくらん」

映画、さくらん
土屋アンナの主演で話題になった、はずの、
今をときめく漫画家、安野モヨコ原作の映画化。

安野モヨコのファンであったので、公開当初に見に行きたいと思っていたものの、
気を逸し続けてついに先日、DVDで観覧できた。

驚くべき駄作である。

映画を見ながらつぶやいた一言、
「だめだわ、この監督」

監督は蜷川実花(にながわみか)。
写真で有名な人だけあって、
実に映像は美しく、絵の構成も悪くないみたいに思える。

絢爛豪華な吉原遊郭を、
現代のセンスで再現したその映像美はかなりのもの。
あの椎名林檎音楽監督をしている点も見逃せない。
音楽もわりと良かった。

原作もそうであるけれども、
和であること、時代考証をしっかり踏まえながら、しかし、
時代劇のように落ち着かせず、
主人公・きよ葉を破天荒に魅力的に動かす。

だから、なんでこんなに駄作になったのか、
イマイチ理解できない。
昔から思ってるのだけれど、
たくさん金を使ってつまらないものを作るのって、
結構大変だと思うのだが。


今作の問題点はもう、ただひとつ。
「軸がぶれてる」
これに尽きる。

徹底的に軸がぶれている
何を描きたいのか、が、
劇中で3~4回、ころっと変わっている。
監督が気でも変わったのか、撮影中に三回くらい人生観が変わったのか。

映画は、大きく前半と後半に分かれている。
第一部と第二部といってもいい。そのくらい作風が異なる。

原作、安野モヨコ「さくらん」は、実は未完成。
それをどのように映画で「完結」させるのか興味があったのだが、
第一部では原作の再現に従事し、
第二部では完結篇として原作にない話をくっつけている。

時間的な比重が五割ずつ。この時点でおかしい。
少なくともコミックスでいくつかのドラマを盛り込んでいる原作を、
半分の時間に凝縮しようとした「粗」はすさまじい。

とってつけたような完結篇は
それまでのせわしない展開から一転して時間の使い方が贅沢で、
間延びしたストーリーとなっている。

「監督、原作読んだ事ないんじゃないのか?」
とさえ思ったけれど、これは間違いなくシナリオが悪い。
構成が悪い。
日本人から消えつつある「構成力」の影響がこんなところにまで暗い影を。

映画って、世界のすべてでもっとも構成力を必要とする作品でしょ??

さて、前半。
絵は、非常に綺麗。美麗。
時に妖しく時にあでやか。
遊郭・吉原の象徴として原作にも描かれる「大門」に、
きんぎょの水槽を乗っけてしまうセンスには脱帽。
美しい。

安野モヨコも好きだと言う、金魚を鮮やかに使っているが、
とてもきれいだ。

だから、「軸」を立てるとするなら、
金魚か大門にすべきだった、と思う。俺なら大門で撮る。
象徴の中に収め、「内」と「外」のドラマとして描けたはずだ。

原作のある作品すべてに言えるけれど、
原作をなんとか再現しようとして失敗する、
という当たり前の罠に、今作もはまっている。

あの分厚いコミックを二時間に濃縮するなんて、
相当の技術とライティング能力がなけりゃ不可能なんだから、
もっとばっさり切っていかねばならん。ご隠居の部分とか。


続いて、後半。

おそらくはー・・・安野モヨコも、最初、少しは考えたであろう展開を、
後半にもってきている。
単純なやり方だったが、別に単純であることは悪いとは言えない。

ところが、その線は、「原作者が捨てた線」なのだ。
安野モヨコの一瞬のマヨイ程度の挿話を、
本気で映画化してしまったのが後半。

最後の朝の場面なぞ、どこの中学生日記かと思った。

安野モヨコが描いたのは、
娘が、魑魅魍魎の跋扈する遊郭で、
「手練手管」になっていく物語、
ふてぶてしさの物語なのだ。
単純な成長譚といっていい。

くだらないラブストーリーではないのだ。

そういった原作の持ち味を完全に履き違えてしまい、
この作品は史上稀に見る駄作となっている。
キャスティングにも一部失敗が見られる。
土屋アンナは、危惧していたほど悪くはなかった。
(けどどっちかと言ったら「粧ひ」役の方が似合いそうだったよな)

最も、絵は美しいので、セリフだけなんとか消し去る事が出来れば、
映像作品としてはいいかもしれない。
音楽も悪くないので、「音を消せ」と言えないのが困りどころ。


これの前に見た
「ローズ・イン・タイランド」は
面白かったのだけれどなぁー。
全然関係ないけれど。