消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

「蟹工船・党生活者」小林多喜二

蟹工船・党生活者」小林多喜二

かつて日本がこうであり
それは江戸時代とかの遠い昔ではなく
戦前戦中という「わずか六十年前」という事実に
改めて驚愕させられる。
「自由」という言葉がいかに新しい風であるかを痛切に感じさせられる。

そういう意味で「蟹工船・党生活者」の価値は
当時より今現代にこそ大きなものといえるだろう。
それは昨年、時ならぬ本作の不可解な流行にも呼応する。

失われたもの失われつつあるもの欠けた隙間、
現代の若者らがそこに「蟹工船」を求めたとするならば
それは思想啓蒙的には良い傾向といえるだろうし
社会的には悪い兆候と言えるだろう。


資本主義が洗練され社会主義化している、
あるいは社会主義の理念的一部を取り入れつつあるのは
多分予測されてしかるべきことだった。

それは長い長い歴史と人身御供の結実によるものだけれども
必要だったのは思想でも革命でも政治でもなく
豊かさであったのだな、と改めて思う。
豊かさによる人々に余裕ができ
自由、平等と言う観念を真に感じ考えることができ
社会全体としてより良き方向へ向かおうとしたこと。

そう、社会全体でというのがポイントであった。
一部思想家による扇動や感化ではなく
革命による解放や暴動ではなく
本当の思想的成熟(社会的成熟)というのは、
ゆっくりと自然に行われるものだったんだ
今歴史を紐解くとそう考えさせられる。


作者、小林多喜二は「蟹工船」発表で文壇の注目を浴びた後
非合法化の共産党活動を行い、
三十歳で投獄され拷問死を迎える。
共産主義者としての凄烈なる生涯であったわけだけれども
小林多喜二を含む当時の共産主義者の活動が残したものはなんであったろうか。


現代社会はけして平等とはいえない。
格差拡大と言われる昨今の風潮もある。
けれども少なくともバブル後数年間、
共産主義者が求めた(思想的にはいたらねど)状況的には
近い状態の社会が生まれたのではないだろうか。


それはまことに皮肉にも「資本主義の飽和」という形でもたらされ
飽和により生まれたゆとりが人々をして
「自由」や「権利」という観念を考える余裕となり
平等という方向性(方向性のみであっても)へ向いたのではないだろうか。


であるならば(死者に鞭打つような不敬の発言を詫びつつも)
共産主義者たちの殉職は「無駄」であったと言う他ないのではないだろうか。


小林多喜二の「党生活者」を読むと特にそれを強く感じさせられる。
批判を恐れず言うならば、「党生活者」で描かれる党員の生活は
「真剣なおままごと」に私には見える。
事実としてその活動で多くの流されるべきではない血と命が流れたことを考えると
とてもこんな悪ふざけのすぎた言い方は赦されるべきではないが。


もちろん、すべての歴史は積み重ねによって成り立っている。
それはもしかしたら積み木、ジェンガのように
ひとつの木片が欠けただけで崩壊するものかもしれない。


に、してもである。
1976年に生まれ21世紀を生きる私にとってはどうしても「ピン」とこない状況も
多々ある、当然の如く。


私の読んだ「蟹工船」は「党生活者」との二編をまとめた文庫であった。
この二編を並べるのは全く正しい選択だろう。




蟹工船」では、昭和の高度経済成長の裏側で行われた
労働者の過酷で非人間的な現状、
それにあぐらをかく資本階級への憎悪に満ちた批判で溢れている。

とにかく圧巻なのはオホーツク海へ乗り出す蟹工船
労働環境の描写であろう。
400人近くを収容する巨大な蟹工船の中では
労働者の人権、命など蟹の足ほどの値打ちもなく
本社から派遣された「監督」に牛馬の如く働かされ、打ちのめされる。

労働基準法なんかが制定されるはるか以前の話であろう。


ボロボロに働かされる労働者らが、オホーツクと言う地の影響もあって
ロシアの共産主義に触れ、「赤化」していくさまが描かれている。


「赤化」というほど明確な思想啓蒙などがあるわけではないのだけれど
働き殺されかねない状況の中の「救い」として描かれている。


物語は労働者が初の団結権を行使したところで終わる。
物語が終わった後の作者による「付記」が痛烈で面白い。


蟹工船」は古い文体に加え漁師たちのあくの強いなまり、言葉遣いが
非常に活き活きと使用されているため若干の読みにくさを感じる。
けれども慣れてしまうとその瑞々しい擬音や目を覆いたくなるような悲惨さの描写に
ぐんぐんと引き込まれていく「傑作」である。


これが昨年ヒットして多くの若者に読まれたと言うのなら
それは実に喜ばしいことだと思う。
文学の面白さが濃縮されているから。




蟹工船」にて初の労働権が行使された後に続くのは、
非合法の共産活動者の生活を描いた「党生活者」
特高の目を日々異常なまでに警戒しながら(実際捕縛者も出ているので必要な警戒であるが)
勤務先の工場の、労働者への扱いを糾弾する、
そんな活動を描いた中篇である。

蟹工船」で不当労働への抵抗へ反旗を翻した労働者が
実際にその活動の現場を描いた「党生活者」へ続くわけだ。



臨時雇いの職工への不当な扱いに対する憤りなんかは
現代のワーキングプア問題、派遣社員問題に通じるものがある。
(だから昨年売れたのだろうけれど)


現代の高度高等教育を当たり前に受けている若者たちを感化するには
活動内容や「赤」の思想は単純に描かれている。
今更ボルシェビキでもあるまい、と昨年読んだ読者は大抵感じるのではなかろうか。

おそらくは作者が期待したであろう赤思想への啓蒙は、
それが顕著な「党生活者」においてさえも現代日本では実現しないだろう。

そもそも、「蟹工船」の実情を我が事のように真摯に受け止める土壌は
もはや日本にはないはずである。
それは私の楽観に過ぎないかもしれないけれど。



さて「党生活者」
実はまだこちらの方は読了していないのだけれど
蟹工船」とはだいぶ趣が異なっていて
人目を避け工作活動をする様はスパイモノに近く
どきどきさせるサスペンスタッチで読みやすい。

しかしそこでふと我に返るのは
これが某国の単純なスパイモノのフィクションでも
大昔の歴史的絵巻でもなく
実にわずか六十年前、我々が生きているこの国で「実在したリアル」であることに気づき
愕然とするのである。

ネットやらで好き勝手の放言が「当たり前」となった近現代からすると
想像を超えた規制の世界である。
「想像を超えてしまう」ところがポイントで
だからどうしてもリアルにとれず

ビラ作成、だの噂話を利用する、だのアジトを作ったり、だの仲間と連絡、だの
「真剣なおままごと」と表現したのはそんなアンリアルな感覚からであった。
平和ボケならではの感想と言えるだろう。
実際として現代社会においてさえも、アフリカなんかの国では
生きることも寝ることも命がけのとんでもない世界が「リアル」にあるのであるから。




党生活者の「真剣な」活動がどのような展開をするか。
それによりこの感想文にも補足が入るかもしれないが
蟹工船」「党生活者」
非常に「お薦め」な作品である。
もちろん、思想とは別の部分で。