消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

天地明察/冲方丁

2010年本屋大賞1位を受賞した「天地明察」を読了した。
あまりにも清々しく、美しくも背筋の通った歴史物語に
言い知れぬ熱い感動を得た。

と同時に、最後の一文を読んでふと、涙してしまった。
作家、冲方丁の「うまさ」が最後の最後にすらり、と染みる。

非常にドラマチックな作品であり、大河ドラマよろしく、
あるいはミステリーよろしく、
多くの「謎解き」が現れる作品なので
感想文としてその謎に触れてしまうことにご容赦いただくと共に、
せっかくだから何も知らず、何も読まずにこの作品に触れていただくことを
推奨したい。

とはいえ、主人公「渋川春海」は歴史上の人物であり
そのなした業績は知る人は知る有名なものであるから
歴史に詳しい人は知っている展開なのであろう。
また、その展開を先に知った所で作品の面白みが損なわれるものでもない。

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作者、冲方丁は、いわゆるラノベ作家であったらしく
そのタイプの人が重厚長大歴史小説に手を出すとは
少なくとも私は思っていなかった。
ラノベ作家」という呼び方に、既に私の中で偏見と軽侮とが混じっている。

がしかし、見事に面白い小説であった。
歴史小説の特異たる部分であるが
多くの勉強と調査が必要になるその部分も、
実に精緻に描かれていることから、
中途半端な知識で書かれたものではないことが容易に想像つく。

もうこの時点で上から目線なのであるが、
司馬遼太郎吉川英治といった歴史小説大家らの
怪物のような博学さと調査量を目の当たりにしている側からすると
歴史小説=ちょっとした学者が書くもの」
という盲信さえある。

その盲信は正しいのだろう。
天地明察」の冲方丁の筆致も、膨大な知識と資料に裏打ちされた
歴史の重みを感じさせる表現となっている。
ちなみに、その歴史小説の大御所、吉川英治賞
当作品は受賞しているという。全くの納得である。


例えば、ガリレオ・ガリレイニュートン。ファーブル。キュリー夫人
エジソングラハム・ベルダーウィン
学理を築いた歴史的偉人の本を、我々は「伝記小説」として分類し
幼少の頃に課題図書や親からの提示で読みあさって
「こういう立派な人になりたい」
と夢馳せるものである。

日本人であれば野口英世、平賀源内などが
学理を築いた偉人としてタイトルに並ぶだろうか。

私は、渋川春海という人名を知らない(お恥ずかしい)。
しかしこの人こそが、江戸時代、日本の暦(カレンダー)を作りあげ、
そのための調査観測、数学的証明を果たした人なのだそうである。

え? と思う。
我々現代人の感覚では、まず、「カレンダーを作る」という偉業に、
はてなマークが浮かぶだけである。
寛永何年何月何日、どんな事件があり、
天保何年何月何日、どんな火事があり、
泣くようぐいす、いい国作ろう、で都が移って、云々。

カレンダーは昔からあったものではなかったのか?
日時計とか冬至夏至の観測から
一年365日が暮らしを区切っていたのではなかったのか、
そう思うものである。

あるいは、マヤのピラミッドやエジプトの世界遺産の例、
イギリスにも太古のそういう遺跡があるのであるが、
一年のたった一日の時だけ、ピラミッドの影が蛇を生み出したり
遺跡の一番奥の部屋まで陽光が指したりという、
天文知識の粋を結集した遺跡を知っている我々にとっては、
当然カレンダーや太陽や月の動きを人々は「知って」おり、
暦の上に表現されており、
それにあわせて生活の順序を組み立てていたと思っていた。昔から。

皆既日食が起こった際、かつて人は大いに怖れ、
天照大神が天の岩戸に閉じこもってしまった話」
などの神話が作られていた大昔に比べれば、
鐘の音が時間を知らせ、年末にはたまった「ツケ」を払う庶民の暮らしのあった
江戸の世の中では、
とっくにカレンダーや時間法が確立されているものだと思い込んでいた。

違ったらしいのである。


主人公は渋川春海、あるいは安井算哲、あるいは保井算哲という。
昔の人はよく名前を変える。
家督、という重大な意味が名には含まれており、
あるいは政府である幕府にとっての政略構想図としても名がある。
争いを避けるために名を変えて権力から遠のいたことを示したり
自らが家督を継いでることを公的に知らしめたり認めたり、
あるいはそういうように名が重たいので、非公式の場や書面に残らないような工夫から、
名前を使い分けることもあったりする時代。

渋川春海」は基本非公式な名前で、主人公自らがつけた名前で、
おそらくは思い入れも大きい名前。
最終的な晩年、正式にこの名を名乗っていることから、作者も作中でこの名を採用している。
「安井算哲」が家の名前、公式の名前。仕事の名前。
作者はこれらの名前を使い分ける主人公に共感し、
先祖伝来に与えられた役割と、その一方で別の炎が当人も気づかぬところで燃えているような
主人公の心の機微を、作中でもうまく伝えている。

本当の自分はなんなのか。
自分の役割とはなんなのか。
問うように名を使い分ける若き日の主人公が、
大きな思惑と大きな目的を拝啓に成長していく、
その様が描かれている。
渋川春海か、安井算哲か、などとふらふらしている若き日の彼からは
想像もできないような
ちょっと普通ではない大業を為す人物なのである。


カレンダーである。
星図である。
今現代でこそ簡単に手に入るこれらの資料はしかし、
計算機も測量機械もほとんどなかった当時においては、
非常に大掛かりな「測量」の結果である。

例えば、閏年がそうである。
我々が今手に何も持たずに、地球の一年の時間をはかろうとしたらどうなるだろうか。
正しく、正確に。
地球は、こまったことに簡単単純な時間割で太陽を一周してくれるわけではない。
365日と、0.2425日。
これが現在のグレゴリオ暦でも使われている数字である。
これを計ろうとしたらどうなるだろうか。

日時計をこさえて毎日記録するだろうか。
むずかしいのは、「どこまでを一年」とするかであろう。
この0.2425日を導き出すの、なかなか至難の業である。

実は当時、日本で使われている暦「宣明歴」では、この末端の数値が異なっていた。
ところ、しかし、それほど問題になるものでもない。
たかが一日の数分の一の時間である。
誤差など10年、20年でも微々たるものである。

しかしこれが、800年使われていたら、どうなるだろうか。

渋川春海の物語は、この、宣明歴800年後、
江戸の四代目将軍、家綱の時代に始まる。
この時代、宣明歴の誤差は無視出来るものではなく明らかで、
実に二日間のずれになっていたという。
日食月食が2日違いで発生し、冬至夏至が2日違う。
それがどのくらいの問題なのか想像するのはなかなか難しいが、
月の満ち欠けが農業漁業などに影響を与えるものであったことは
何となく理解ができる。

それだけではない。
日付は、祭事、神道と連なっている。
由来ある神事に対して、日付がずれている、となればどうなるか。
その是非はともかくとして、信神深い民衆の心持ちはどうなるだろう。
大げさに聞こえるかもしれないが、権威失墜、信神失墜につながることになりかねない。
単純な話、大晦日が一昨日でした、と言われたら、どんなことになるか。
除夜の鐘のありがたさも減じてしまうように感じられないか。


誤ってるなら直せばいいではないか、
とは単純にはつながらない。
暦は権威とつながっている。
その権威はどこにあるか。幕府か。
あるいは、朝廷か。

日本の歴史の、特徴的かつ重要事項である。
源頼朝武家の幕府を開府して以来の数百年。
他国ではあまり見られない不思議さがあるが、
武力という力で持って暴れ馬と共に国土を支配する武家社会が、
別の勢力、象徴としての公家社会を滅ぼさず、大切に京に置き続けている点である。

例えばフランスだったら革命で王家は滅ぼされている。
中国では帝を好き勝手に連れ歩いて利用する、ただの旗印のような扱いである。
日本では、京都に対する不可侵の畏敬の通年がある。
実権を握っているのは江戸幕府であり徳川であったが、
その実権すら、形式上とはいえ、天皇勅命でもって代々任命してもらっているのである。

江戸末期の幕末、天皇への大政奉還がなされた事件があるわけだが
日本人の文化的、精神的支えは、常に京都御所天皇にあった。


さて、舞台は四代目将軍家綱の時代である。
この時代は、徳川三代の後の時代である。
それは何を意味するか。

戦乱の時代が終わり、泰平の世へと変わる、まさに過渡期である。
それまで、武力、武術で持って世の中を渡り歩いていた武家社会、
もっというと徳川家は、戦う相手がいなくなっている時代である。

戦乱から文化へ。
武家社会、幕府のあり方を、根底から転換させるべき段階に入っていたのである。
その文化的大事業の一つとなったのが、暦の改変、改暦であった。

それを成した人が、渋川春海である。
驚いたことにこの人、当初はただの碁打ちであった。
と書くとだいぶ実際とずれた印象になってしまうので正しく表現すると、
幕府に対して碁でもって奉公する、碁の名人家の人間であった。
大老や幹部クラスの幕府の人間に碁を教えたりしながら、
情報流通の役割も兼ねていたようである。

渋川春海は自らの出自に基づいて父を継いで碁奉公をしているのだが
その興味は他にあった。
算術、天文。
趣味であるそれらが人に見出され、大役を任されることになる。
その流れがなんとも運命的でドラマチックで面白い。

江戸当時は暦もそんな状態でありつつ、
算術もまだまだ現代に比べれば未発達であった。
その一方で急激に発達しつつある分野でもあり、
算術塾などが開かれて町人やらが学んでいた。

武家の間では金勘定を卑しいものとして
算術を嫌う風潮があったが、
その一方で勘定方などが石高を計算しコメを金に変えるので
金勘定を筆頭に重要な意味を持っていた。

渋川春海の算術興味は、金勘定とはちょっと違う。
純粋に学問的興味であった。
それがある日、一人の天才と「出会う」。
物語はその「出会い」から始まるのだが、
出会ったのは算術問題と、答えとしてであって、人本人とではなかった。

算学絵馬。
神社境内に飾られるあの絵馬。
渋谷は宮益坂に、算数の神様を祀る金王八幡なる神社がある。
(今もあるらしい)

算術好きの渋川春海がこの絵馬を見に行ったところから
天才・関孝和の存在を知ることになる。
その天才の数学能力に打ちのめされるところから、
実に、十数年。
本文中半ばでようやく出会う二人の場面は、
これまでのどの小説にもないような、特異な場面となった。
熱い場面である。


算学絵馬が風にゆれてからん、ころんと鳴る音が
一つの象徴としてこの小説の中で道を通している。
学問の探究という、ともすると生真面目で堅苦しい題材を、
馬と刃の合戦以上にドラマチックに描き、
熱い思いを読者にたぎらせる快作。
そして改めて、歴史小説の面白さを存分に味わわせてくれる。

大傑作の一冊であった。

大河ドラマ化、しといてもいいんじゃなかろうか。