消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

やるか、やらないか。

当たり前だけれども成果というものは目に見える形であって
それは他人に認識される形で始めて成果として認められる。
誰かの頭の中に世界をひっくり返すくらいに素晴らしいアイデアがあるとしても
それが他人に認識されない限りなんの評価もされないししようもない。
「成果」というのは、とても第三者的、という話だ。
コミュニケーティブって話だ。

成果を望まなければ、それは自分の中の深いところで眠っている、
鍋の底の澱のようなものであっても全く問題無いだろう。
それは本人が望む時に撹拌されて表に出されればいいし
あるいはそのまま沈殿し凝固し棄却されてもいい。
だが成果を望むなら必ず外に出さなければならない。
どんなに希釈されようとも、どんなに部分的になろうとも。

じゃあなぜ成果を望むか。
それは実現を望むからだ。
そして実現に際して、一人の力では達成できないからだ。

例えば小説家になりたい、漫画家になりたい、
そういう個人的な職業(と思われている職業)を目指す場合は
一人で黙々と原稿用紙に向かって作業を続ければいい。
個人的にはそこに第三者の目や批評があった方が
色々ショートカットできる成長があるように思うけれども
まぁとにかく成果は最終的な段階で、
つまり作品が完成した段階で応募し発表し、
芥川賞らしきものを受賞すれば済むことだ。

もう少し広がりのある「実現」であったらどうだろう。
例えばバンドでメジャーデビューしたい、
映画監督になりたい、俳優になってスクリーンを賑わしたい。
これには他者の協力が必要になってくる。
バンドメンバー、映画を撮る人、シナリオを書く人、
役者も数人いたほうが望めるものがつくれるだろう。

複数人になってくると、アイデアや実現ビジョンが
自分の内側だけに留まっているものでは成立しない。
誰にも見えない。
透明なネコがいて、触っても感触がなく手がすり抜けてしまうとしたら
それは存在しないことと同じで
ネコにはネコらしく耳と尻尾とふわふわの手触りというものが必要だし
実現ビジョンも他者に何かしらの方法で知らせなければならない。
酔って語るのもいい、ノートに走り書いたメモ書きでもいい、
テープに録音した鼻歌でもいい。

これが、成果として外に出さなければならない、ということ。
回りくどいけど当たり前の話。

その成果を、自分が望む形にすること、それが実現。
だから、私は成果を、完成形とは異なる視点で見ている。
思い描いた設計通りに出来上がることばかりが「成果」ではない。
志半ばで完了となったもの、形が変更になったも、あるいはその途中状態、
それらひとつひとつは成果である。
形となって第三者に認識されるものが成果である。
もちろん、成果=評価ではないから、
その成果が望む評価にならないかもしれないけれども
何かをアウトプットし、何かが残ったということは、
避けようもなく目を背けられない「成果」だ。


成果は、100%であるべきだろうか?
なるほど、それに近ければ近いほど満足できるだろう。
求めているのは100%の成果だろう。
100%までやり遂げて形にした成果であれば、
たとえ評価が悪くても納得できるように思うし、
むしろすべてを完成させた成果に対して評価評判が悪いなんて
全く想定しないだろう(そうとばかりはいかないものであるが)。

少なくとも、成果は、100%に近づけたいものである。

では100%だけが成果か?
無論違う。先にも書いた。
では100%に満たない成果は失敗か? 唾棄すべき遺物か?
忘れたい過去としてトイレに放り込み洗い流したいくらいのものか?

まぁそういうものもあるだろうな。
でも、成果は、100%を目指すことができる。違うか?
10%でプロジェクトが終わってしまったとして、
その完成度が10%であるものが、そのまま10%で永遠に凝固してしまう理由は何か?
止めたからだ。
その作業を、その進捗を、その活動を。
10%を引き継ぐものがなかったからだ。

10%は失敗ではない。未完成なのだ。
未完成なものはすべて、完成し得る可能性をもっている。
サクラダ・ファミリアも、銀河鉄道の夜も、未成熟な人類政治も、
たとえ主担当が息を引き取った後でも、誰かが引き継げば作業は続く。
望む方向に行くかわからない(それが誰の望みかもわからない)、
当初想定していた形から離れたものになるかもわからない、
けれども完成させることは出来る、
あるいは、誰かが「これで完了だ、満足だ」と言えるところで
幕を引くことはできる、幕を引くまではできる。

幕を引かない限り終わらせる必要はない。
(幕を引いた後だって厚顔無恥に続編を作ってくる連中がいるじゃないか)


私の長話に付き合ってくれてありがとう。
「何が言いたいねん」というのがこのへんだと思うのでまとめると
・出さなきゃ成果じゃない
・10%ずつでも進めりゃいい
まぁこういう事が書きたかったのです。


仕事をしていて時折感じるのが、
100%の、あるいは理想形となるような形にならない限り、
そのアウトプットを出す努力をすべきではない、
と頑固に考えている人たちの多さです。

一歩が踏み出せない。
ゴールが見えてないと踏み出さない。
ゴールに向かう道が開かれ車両規制がなされ日付も協賛会社も全部ついて
さぁスタートだ東京マラソン、とならなければ動き出さない人の多さ。
すべての始まりが一歩に過ぎないことを理解できていない人の多さ。

ここまでは納得得られると思うけれど、もうひとつ私が考えているのは
「その一歩が逆に後退する一歩であっても構わないから踏み出せ」
というもの。
私は踏み出すことに意味があると思う。意義があると思う。


留まる水は濁る。
一般的に、必ず濁る。
留まる水はにごるが、流れる水はいつも清い。

停滞は緩慢な死である。
停止はゆるやかな自殺である。
満足して歩みを止めた時、未来はなくなる。
進化の終局は死である(これは別の意味だけど)。


だから、思うのです。
いいから一歩進めよう。
それがゴールから離れてしまう道でも、
むしろゴールを遠くする道でも、
動いてる限り、修正は効く。
ミスは取り返せる。
時間は取り返せない。
時間とは、その瞬間その瞬間の停滞である。
そこは動こう。
ミスも成果である。
学ぶことは失敗にこそ多い。
誰かがやらないなら自分がやろう。

誰かがやらないなら、自分だけでもやろう。


↓下記は、自己啓発書から学んだことを批判的に揶揄しあってるくだらないスレだが
http://chaos2ch.com/lite/archives/3383644.html

やはりつくづく思うのは、
行動しない奴、アウトプットし無い奴、
それから、何でもいいからまず一歩を踏み出せない奴、
そういう奴らはやっぱり何も為さないんだな、と思いました。