消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

動物を飼った記憶。

「ついに、ミケには愛されなかったよ・・・」
「じゃあ、何に、愛されたんだ?」
捨てた調布の女(猫)のことをいつまでも愚痴ってたら、友人に突っ込まれた。
少し考え、しばし考え、
気を落ち着けるために休憩を挟み、熱いお茶をすすり深呼吸して、
最終的には本腰をいれて真剣に考えた。

「ジャア、ナニニ、アイサレタンダ?」

人間の記憶なんてあいまいなものである。
わずか数億個の脳細胞がマイクロサイズなニューロ電子でやり取りしてる波形情報なんて
欠品と欠陥と欠損と欠落の連続ではないか。
そう、いわゆる「忘却」のメカニズム。
忘れてるに違いない。在りし日を忘れてるに違いない。大切にしてきたものを、どこかに置き忘れてるに違いない。

「ジャア、ナニニ、アイサレタンダ?」

生まれた日まで遡りほぼ一秒単位で日々の記憶をまさぐったのだが、
検索結果は惨憺たるものだった。

動物に愛された自分が、過去に一秒も存在していない

なにかしら小動物をそれなりにペットにしていた記憶があるのだが
あろうことか、それらは全部「借り物の記憶」だった。
都合よく「作り変えられた」思い出だった。

その代表的一例を挙げてみよう。
まずなんといってもハムスターのぺっちゃん。
我が家では何匹かのハムスターを飼ったが、オスならぺっちゃん、メスならちーちゃん、という
二元論でしか命名していなかった。

この辺で既に記憶力の鍛錬がなされていないことがわかる。

確か、最初にハムスターをもらってきたのはこの私だったと記憶している。
これすら怪しいものであるが、小学校でもらえた、様な気がするのだ。
そして親の反対と「誰にも迷惑かけないから」の口約束の元、ペット禁止のマンションで飼い始めた、はずである。
今現在の自身の性格・性質を考えると、この「口先だけのマニフェスト」は、いかにも自分らしい行為なので
この記憶には信頼が持てる。

当時六歳の少年が既に「飼い始めればこっちのもの」なんて戦略を練っていたと思うと悲しくなる。

しかしひどいのはむしろここからである。
ハムスターをもらってきたのは私である。
そして「飼いたい、育てる」と宣言したのも私である。
しかしもう翌日には、ひとつ下の弟を 世話役 に大抜擢していたのである。

所有権は俺だが育てるのはお前

ゆがんだ兄を持ちながら意外にも(この時点では)ぐれていなかった弟は
ハムスターに関われる事に大いに喜び、
この「正妻と愛人」のような不公平なシステムに気づかずにただはしゃぐだけだった。
所有権を持つ私は、弟の愛情を一身に受けてむくむくと丸くなっていくハムスター「ぺっちゃん(初代)」を
好きな時に好きなように奪い取ってもてあそぶだけ転がして
飽きたらカゴに放り込むのだった。

ハムスターと遊びたい盛りの弟が、じっと我慢する目の前で。

以後、二代目ぺっちゃん、三代目ぺっちゃんと続くと
もう興味すら抱かなくなった私は夜中にカリカリうるさいハムスターケージに枕を投げつける始末。
名前がころころ変わってたらそれすらも覚えないところだったけれども
なぜか皆同じ名前を弟がつけてくれた。
代までは忘れてしまった。

その他にも子猫、カブトムシ、クワガタ、
何かしら「育てる」べき動物たちが来た様に思うのだけれど
皆、育てることに介入していなかった私。
どうやら、何かを育てたことがないらしい。
弟が育てている獲物の 育ててる思い出だけいただいちゃってるらしい
思い出作りまでしたたか。

それでか。
ミケとの接し方が、ついにわからなかったのは。
押し付けるだけの愛が、三毛猫には向いていないだなんて、ついに五年間気がつかなかった。