人が死ぬのは、救いか、絶望か
欠伸してる猫の写真とともに、
このブログ記事は、
タイトルとは裏腹に軽い内容…
いや、軽い内容に「しておきたい」事項である。
人は死ぬ。
…重い。
人に限らず、生命は死ぬ。
クマムシあたりはだいぶ怪しいけど、取り敢えず人は死ぬ。
アリも死ぬ。
でもアリの個別の死に思いが向くことはない。
しかし人が死ぬ時、
その人に人生があって過去があって未来があったかもしれないことを想像すると発狂しそうになる。
…死ななくても、道ですれ違う人それぞれにだって人生はある。
そこには想像なんて到底及ばないバラエティに富んだ人生と感情がある。
…すげぇことだ。
そんな、個々の物語をもった人が死ぬ、ということを思うと、もう頭がパンクである。
「思考が溢れてパンクするから、みんな死なないで!」
と魔法のランプにお願いするとする。
…確か死んだ人を生き返らせるのはダメ、とランプの精は言ってたけど、「みんな死なない」なら禁止事項には入らなさそうだが…どうだろう。
じゃあみんな死なないとする。
そうすると、人が減らない。
地上は人で溢れて食糧が足りなくなって増え過ぎた人口を宇宙移民にして半世紀過ぎた頃にガンダムが戦争に使われるかもしれない。
多分それは困るんだ。
新陳代謝が必要なんだ。
だから人は死に、人は生まれる。
仕組みとしては…よく出来てる。
ならばなぜ、このような感情まで神様は人に与えたのか。
死んで生まれると言う当たり前のサイクルを無感動に受け入れるように、神様は作らなかったのだろうか?
ミス? バグ?
ゲームでも映画でもマンガでも小説でも、
人が死ぬと考えてしまう。
夜半、風呂で髪を洗ってる時なんかに、娘が死ぬことを想像してしまう。
マンガとかゲームの演出みたいに。
娘が産まれてから、確実にいくつかの感情が変わった。
無感動にページをめくっていた手が重くなった。
登場人物の産まれた頃に想いを馳せ、
その親の気持ち、名付けた想いにまで思考が至る。
…脇役なのに。
脇役でほぼ無名のキャラなのに。
…でも俺も娘も、比較的脇役であるから、他人事ではない。
誰も死なない世界ならいい、誰もが幸せな世界ならいい、
と単純に思ってみても、その夢はランプの精は叶えてくれない。
死は免れ得ない。
だから人は宗教を発明し、死に救いがある、という理論を作った。
…多分まやかしである。
でもなんと切実な、優しいまやかしであろうか。
受け入れ難いけど、なんとか、その日が来る前に、
「死は救いである」と思い込むことができたら…勘違いする事ができたら、いいな。