自分より他人の幸せを
自分の幸せよりも他人の幸せを取る、ということは、
この一文だけを取ると、古くから批判と懸念の多い一文である。
しかし。
だいぶ見えてきたな、と感じることがある。
人生を生きてきて、
あるいは世界世情を見てきて。
人類はずっと、
ずっとずっとずーーっと、強者による搾取の歴史であった。
それは社会性を持って群れる生命体にとっては、宿命というよりは、性質なのかもしれない。
それは変わらない、多分変わらない。
しかし人は文明を築き技術を手にいれ様々なテクノロジーの成果として「余暇」を手に入れた。
搾取されてもまだなお手元に「余暇」が残る。
そこに、人類は新しい可能性と不幸をトッピングすることになる。
この「余暇」を、「自分の幸せより他人の幸せのため」と考えなければ、多分人類の不幸は終わらないし、争いは消えないし、犯罪は跋扈し続け、
不倫は自己中で他者を不幸にし続けることとなる。
「自分を押し留めてまで他人を立てる」ことは、美徳とは言えない傾向がある。
だが「余暇」について、自己中心的に使うことは、他者を、周囲を不幸にする因果の仕組みらしい。
私はしばらく「不倫犯罪論」を丁寧に書こうと考えているのだけれども、
その根幹理論がこれであることがようやく言語化出来てきたぞ、というのが、これである。
「余暇の滅私奉公が基本的人権の基本」
…でも長々各気力が全然沸かないのでこの辺にしておく。