消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

「想像力」がほとんど全てにおいて人間の能力を決める力点なのだ

想像力を持つこと。
想像し、自分の体験外の事まで想定すること。予測すること。
折にふれて私は、想像力の大切さを書いてきたつもりであるし、
想像力が人間にとって(特に先進国的なホワイトカラー社会にとって)
最も重要な能力であることは、多分間違いないと思っている。
その確信は仕事をしながら、大人社会で生活しながら、
日々より強くなっていくばかりである。


想像力が無い人間は犯罪を犯す。
その結果が、どれだけ後々の自分にとって不利益になることか想像できないからだ。

想像力の無い人間は相手の高をくくる。
結果、手痛いしっぺ返しを受けることがままある。
自分の体験と経験からしか物事を判別できなくなってるせいで、
相手の成長や相手の可能性を考えることができないのである。

想像力の無い人間は「だろう」運転をして交通事故を起こす。
「かもしれない」運転が大事、とは教習所だったり、免許の更新時に
何度も何度も教わることである。

想像力の無い人間は子供から目を離す。
何かが起こることを想定できず、子供は言いつけを守るものと信じこむのだ。
その結果スマフォゲームに課金しクラスで孤立し異性を妊娠させ大学を中退する。
デパートで迷子になっているあたりで、想像するように親が変わるべきだったのだ。

想像力のない人間は目先の利益に飛びつく。
目先の上司に媚びへつらったり、目先のインカムで不正行為を働く。
だらだら仕事をして目先の残業代を稼ぐ。
良い仕事をして出世するほうがどれだけ生涯賃金に貢献するか想像できてない。


もともと、人間というものは想像力を欠如、欠損している生き物である。
臆病な猫であればちょっとでも危険を察知するとできるだけ素早く逃げて安全な区画に潜り込む。
好奇心旺盛、と言えば聞こえがいいが、強がりだったりめんどくさがりなな猫は、少し離れて様子を見る。
相手との距離がこのぐらい空いていれば逃げきれるだろう、と想像しての距離感である。
その時猫は、こちらが飛び道具を持っているかもしれないことなんか微塵も想像しないのだ。

我々人間は好奇心旺盛な生き物であり、
多少のリスクを感じながらも興味を抑えきれずに覗きこんだり首を突っ込んだりする。
人類は発展していくために想像力を抑えこんでいたとも言える。

想像力は臆病さと似たりよったりである。
臆病な想像を働かせると、人の動きは鈍る。
リスクを考えて慎重になり警戒する。
石橋を大量に叩き、せっかくのチャンスを逃すことがままある。
人類は開拓者の段階においては、想像力を押し殺さなくてはならなかった。


だから私は「先進的なホワイトカラー社会においては」想像力が大事だ、と先に書いた。
未発達な文明の中においては、想像力を度外視した強引さと、
ある種清々しいほどの視野狭窄が時代を切り開いていく。
奴隷や農民の気持ちを慮る想像力があったら、ガレー船で大航海に打って出ることはできなかった。
労働人口から搾取しなくては享楽的営みの中から芸術を生み出すことはできなかっただろう。

しかしある段階から人は情報社会の中で生き、戦うようになる。
20世紀の早い段階で、
人間にとって重要なのは腕力と強引さではなく、想像力と慎重さとなった。
なので例えば教育はそのように変化する。

台形の面積の求め方を学校が教えるのは、
長い人生で台形の土地を正確に測る必要があるから、ではない。
台形を2つ足しあわせたら平行四辺形ができることを「想像」できるようにするためだ。
円周率や数学の公式のほとんどが、想像力を発展させるための理屈を学ばせている。

想像力がなければ、自身の失敗経験からしか学ぶことができない。
賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ。
歴史の授業は、悲劇を繰り返さないことと、なぜ悲劇を生み出す思考が生まれたかを学ぶのだ。
年表を暗記することで想像力が育たなければ、結局人は愚かしい過ちを繰り返すことになる。
人間の寿命は短いのだ。
80年で体験できることだけで世の中を渡って行っては、何も先へ発展しない、
人類の叡智を積み重ねていくことができない。
毎回0スタート、死んでしまったら0に戻ってしまう。

不倫をする男女が自らの快楽とくだらない恋心を優先するのは、
周囲に対する想像力が無いからだ。
その些細な行為がどれだけの人数を巻き込みどれだけの迷惑の総量になるのか
まるで想像できていないのである。
高校生や中学生の恋愛ゲームの延長線で稚拙に遊んでいるのである。

その不貞を働く旦那や不倫相手を追い込めないのは、
相手の能力に高をくくって、十分な証拠を集めず感情的に攻め立てるからである。
証拠がなければ犯罪立証できず、騒ぎ立てることで相手を警戒させ、
さらに証拠が出にくい状況を作っていく。
夫婦仲は悪くなるばかりでますます心が離れていく悪循環だ。

一方で追い込みすぎた結果、復讐に対する復讐を喰らう人もいる。
不倫した妻と間男を追い込みすぎて、相手側は会社を首になり、社会から放逐され、
ついに自殺するほかなくなった間男が、不倫制裁をした旦那の家で火をつけて焼身自殺するとしたら
それは追い込みすぎた結果であり、窮鼠猫を噛むという想像力に欠けた結果であろう。


かくも想像力が大事である一方で、
悪い想像ばかりして先に進めなくなることもあるかもしれない。
仕事の打ち合わせをしているとよくそういう場面にぶち当たる。
あれこれとペシミスティックな懸念ばかりを口に出し、一向に腰を上げない連中が
会社には少なからず居る。
いや、
むしろそういう「想像力のある」人しか見かけない。

一見想像力がたくましく、リスクと懸念をちゃんと持てているように見える彼らだが、
近視眼的で視座が低いことは言うまでもない。
そこで立ち止まって心配事ばかり言っている状態が、
もっと先の未来にどれだけビジネスにとってマイナスになるのか、
そこが想像できてないから、すぐ近くの懸念で立ち止まって、全体像を見ることができなくなるのだ。

想像力とは、旅の道筋を引き、
何が起こるかわからない道中のあれこれを想定しながら
ゴールを正しく設定し(少なくともゴールと信じる場所を確定し)、
意思を持ってそこへたどり着くことである。
たどり着くことを想像することが、想像力である。
たどり着くために楽観的な想像をするのも想像力であり、
あらゆるリスクを想定するのも想像力である。

どちらにしても、想像しなくては先に進むことはできない。
それを培い歩みを止めないことを
改めて思い出して欲しい。
小中高校の勉強は、そのためにあったのだから。