消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

僕とネコと離婚物語~ 100 %勝利へ~その27

最終章「しゃべるネコについて」


日本がワールドカップで敗退してから5ヶ月が過ぎた。
アフリカ大会での活躍がめざましかった選手らは海外チームへ召喚され
トーナメントはメッシ率いるアルゼンチンが敗退し、
スペインの優勝で幕を閉じた。

私は独り者としての夏を過ごし
離婚ネタを肴に毎晩飲み歩き
多くの知人、友人と久しぶりに会ったりした。

夏休みには結婚来ご無沙汰していた両親の実家を訪ね
祖父と叔父の墓前に、結婚と離婚の同時報告を行った。

久しぶりに会う親族らと思い出語りをし、
つくづく、血縁は切れぬものだと実感した。
夫婦は書類一つでくっついたり離れたりするものの
血族はこうして、一度は遺産相続を巡るトラブルから散り散りになったものの
また少しずつではあるが交流がもどりつつある。


私の実家の方も色々あった。
積み木くずしよろしく、完全に崩壊していたが
歳月がささくれだった心を癒し
(あるいは、隠し、といった方が正しい。積年のわだかまりは消えないが
見ないふりが出来る程度には大人になったということだ)
入院中の母のこともあって、時折連絡をとるようになった。


すべてが平和な日常に収まったかのように見えた。
しかし我が家には明らかな欠落があった。


「最近あの子、見ないわね」
「だから離婚したんだって言ってるだろう。もう二度と会うことはないよ」
「ふぅん。よくわからないわね」
ネコは面倒くさそうに毛づくろいをしながら適当に応える。

「結婚やら離婚やらなんて、発情期かどうかのちがいでしょ」
と、不妊治療を受けて発情期を知らないネコが耳年増にそんなことを言う。


そうかもしれない。
違うかも知れない。
家族は、家族を作るということは、ただの発情期ではない。
添い遂げる覚悟というものは、簡単に壊してはいけないもの。
簡単に終わらせられるようではニセモノだった、ということだ。


「じゃああなた達はニセモノだったの?」
「いや」
違う。そう思いたい。そう信じたい。
例え周囲の人にどう言われようと、親にさえ嘲笑われようと
それが本物であったかどうかは、私の内側だけにある。
他人や親にどうこう言われるものではない。
少なくとも、ネコにどうこう言われるものではない。

「でも結局、あたしとあなたの二人きりじゃないの」
「そうな。そうだな。お前は残ったな」
そして彼女は残らなかった。
そこには圧倒的な欠落があった。

この家は、私の画策の結果、家電も本も
キッチン用品から何もかもがそのまま残っており
彼女だけが、元妻だけが見事に欠落していた。
風景からそこだけポコンと切り落としたような。
強烈な不在の存在。
すべてが元のままであるがゆえにやけに欠落が目立つのである。


「それで寂しくてネコに話しかけてるってわけなのね」
「まぁそれも今日で終わりさ。この記事を書いたら全部終わり。
ネコはしゃべらないネコに戻り、僕はバツイチなれど元の一人の男に戻る」
「ネコはしゃべらないネコに戻る」
そのフレーズが気に入ったのか、ネコは目を細めた。
笑っているような、気持ちがいいような、そんな顔をした。


一人身になってネコに話しかけるというのはなかなかに痛々しい光景だ。
男としてはみっともないようにも思う。
ただ、聞く話によると、男女では男のほうが引きずる物らしい。
女は未来を生きている。切り替えが早いのだそうだ。


まぁそれも良し。
引きずろうが忘れようが、すべては終わったことなのだ。
そして人生は続く。つまり終わっていないことなのだ。


今回のタイトルにネコを加えたのは、狂言回しとして当事者の私だけでは
恨みつらみを書き連ねるみっともない歌になるかと思ったからだった。
そして、ネコは私を独占できて嬉しいのか、
妻が出ていった後やたらとなつくようになった。
まさか慰めようなどという奉公の精神などはあるまい、
単に餌の出処が一つになったから私に集中してねだっているだけなのだろう。


100%勝利に向けて、と書いた。
この長々しい文章の道程は、少なくとも目的意識をもった道のりではあったと思う。
そして、書き始めた時にはもう決まっていたことだけれども、
勝敗で言えば、負けたのである。

勝利とは何か。
慰謝料を手に入れること、子供とネコの親権を確保すること、
家財をすべて手に入れること、家を渡さないこと

それぞれがそれぞれに、「勝利の定義」を最初にすること、
と私はこの連載の最初の方で掲げた。
目的を持たなければ都度現れる選択肢の中でぶれた選択をしてしまうから。
その「勝利の定義」にもう一つ、書き加えよう。
「現実的な目標とすること」


私は「みんなが笑顔で終われる」そんなエンディングを探していた。
しかしよくよく考えてみるとそれは、ほとんど不可能な完結であった。
大岡裁き三方一両損ではないけれども
全員の負荷を均等割することぐらいしかできず
その負荷がある以上「みんなが笑顔で」は不可能であったのである。


今にして思う。
ケータイメールなど見なければ、少なくとも、
禍根や遺恨を残さず、ただの離婚としておわれたかも知れない。
何も知らずに笑顔で「次は幸せにおなりよ」と笑顔で送り出すことができたかもしれない。

知らないことは時に人を救ってくれる。
だが、何事につけても執着する私のことだ。
そんな張りぼての結論に満足など出来ず、
やはり最後の最後まですべてを調査追求したことだとも思う。


私は、今回目標を達成できなかった。負けである。
が、負け戦としてはそこそこに、出来のよい結果を出せたと思っている。
少なくともこうして、人に語れるネタを手に入れた。
そして色んなことを体験した。冒険であった。


結婚は、良きものである。
成功するにしろ失敗するにしろ、ここまで人生をかけてぶつかり合う体験をできたことを
とてもありがたく思っている。
そしてこの物語が終わったら
もうネコと話す必要がなくなったら
もう一度、本気でぶつかり合えるような結婚をしたいと思う。
一人で漫然と生きることはできる。
だが人生は、戦いがあってこそ活力が沸きみずみずしくある。


私の話を聞いて結婚に対して二の足を踏む若人たちに
私は都度伝えてきた。
結婚は素晴らしい。真剣に人と向き合うことを避けるべきではない。


人間は判断力の欠如によって結婚し、
忍耐力の欠如によって離婚し、
記憶力の欠如によって再婚する。
byアルマン・サラクルー


冬晴れの日差しが窓から差し込んできて
そこだけがくっきりとあたたかく感じる。
ネコは悠然とその日差しの中で伸びをしてから、
また丸くなって洗濯物の中に顔を埋めた。

ネコはしゃべらないネコに戻る。
静かな日常に戻るために、尻尾を二、三度、祓うように、振った。

(おわり)