消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

少女マンガの主人公が嫌いだ

少女マンガの主人公が嫌いだ。
やけにやけっぱちでやけに自虐的で
やけに感情的でやけにネガティブ思考で
やけに周りに振り回されて見当違いの方向の正義感を持ち、
そして大抵の場合、
男によって変わっていく。

一番簡単に端的に少女マンガの傾向を言うならば
(つまり私が嫌いな傾向の少女マンガのパターンを勝手ながら言うと)

自分に自信がなくてどうせあたしなんてって思ってる
内気で言いたいことも言えなくて流されている主人公の女の子が、
恋人となるイケメン誠実良い人オラオラ系彼氏によって
だんだんと変わっていく、自信を持って前を見て歩けるようになる、
そういう構成である。

「今の自分が嫌いだけれど素敵に変わっていく」
物語であり、
それはほとんど必ず、衣服やスタイルやらの外的な部分ではなく、
内的成長として描かれていく。

(あなたの事を思うと頑張れる・・・!!)

的な内側の声として。


そう。
少女マンガは少女成長譚なのである。
主人公が成長する物語であるので
そして成長するためには、最初弱くてはならない。
内面的な弱さ。
それが読者である私を苛立たせるのだが
それを読む乙女たちは

「そうそう、わかる!!」
「あたしも言いたいこと言えない!!」
「こんな彼氏がいたらあたしも頑張れる!!」

と共感を得つつ一緒に成長する、方向性なのである。
・・・残念ながら十中八九読者たちの成長は望めず、
少女マンガ上では完全に否定されていた
「女子力アップコーデ!」
「ネイルは幸せ掴む力!」
みたいな外見的なレベルアップに勤しむ、
anan 的な、
CanCam 的な、
Zipper 的な、
女性自身的な、
まぁそういう方向性へ走っていくのである。

少女マンガの主人公たちが絶対行かないような道を歩むのであるが
それは一重に
「あたしを変えてくれる王子様」
が不在であったからであり、
少女マンガの主人公たちがそうであるように
「必ず悪いのは環境、外的要因」
なのである。

少女マンガの主人公たちと違うのではない、
少女マンガから学んでないのでもない、
むしろ徹底して少女マンガを踏襲しているのであり、
どこまでも少女マンガなのである。
悪いのは素敵な彼氏の不在であり、
その「不在」すら、
少女マンガ的に「何の努力もなく目の前に現れて自分だけを見てくれる」
男性の不在が原因なのである。

他者依存、他力本願、
最初の弱さから、変わっていく過程の一つ一つが
私にはむかついてならない少女マンガ、なのであるが、

よくよく考えてみると
「弱い主人公の成長」
という意味では、少年マンガ
実はまるっきり同じなのである。

ライバルや巨大な敵が現れる度に、一度は負けるけれど
修行して成長して壁を乗り越えていく、
友と高め合い友情パワーを背中に受けて、
連載開始時からは信じられないオーラを纏って敵を倒していくのである。

少女マンガの主人公たちが心の弱さを背負っているのに対し
少年マンガの主人公たちは戦闘力の弱さから始まる。
そしてたいてい、心の強さはデフォルトアビリティとして装備済みなのである。

少年たちは、腕っぷしが弱くてもめげない折れない心を持ち、
諦めず立ち向かっていきやがて打ち克つ主人公の姿に、
己もいずれ、大人たちをぶっ倒して海賊王になってやる! と
主人公たちの背中を追うのである。

やがて自分にそんなに伸びしろが無いことに気づくまでの間。


こうして比較してみると、
方向性はわりと似ている一方で、
入り方、主人公たちへの共感に、興味深い相違がある。

少女たちは自分に自信がないのである。
早熟と一般的に言われる少女たちは、
大人のお姉さん、ドラマの女優たちと自分を見比べ、
劣等感を日々募らせていくのである。
変身願望は女性の方が強いといわれるが、
少女変身ものなんかはそういう女の子心の具現なのであろう。

その自信の無さ、鬱屈具合が腹立たしいのはもちろん、
男によって変わっていく流されっぷりが腹立たしくて
だから私は(飛躍して聞こえるかもしれないけれど)処女が嫌いなのである。
経験を積んで磨かれた女は少女マンガ的に他者依存的でないものである。


さて一方の男の子たちは馬鹿で無鉄砲である。
万能感に満たされており、自分は何にでもなれると思っており、
従順なサラリーマンの大人たちを軽蔑している。
まっすぐに信じていれば地球を救ってあの子を助けられると
本気で信じてしまっているのである。
こういった万能感は中二病と呼ばれる症状に発展することがままある。
この頃の少年たちは修行が大好きであったりするのであるが
その熱意は長く続かない。
苦しさのわりに得られるものが、少年マンガよりは少ないからである。

2メートルのジャンプ力も、気を飛ばす能力も、右腕が邪気腕になることもないことから、
わりと楽に成果が得られる「勉強」に傾倒していくタイプと
「選手になる」というモチベーションを保てる集団競技へ夢中になるタイプと、
あとは妄想の中二病へ、いわゆるオタク道を走りだすタイプと、
まぁだいたいそんな感じにわかれることになる。


ところでここでふと、あることに気がついた。
空前のブームとなった「新世紀エヴァンゲリオン
あれの主人公はどちらかと言うと少女マンガ系の主人公である。
自分のことが嫌いで、自信がなくて、
「でも好きになれるかもしれない」
と前を向くところなんかはそれ系の少女マンガそっくりである。
主人公碇シンジを取り巻く女性たちが彼を変えた、と見るなら
それはまさに「彼氏によって変わっていく少女マンガの主人公」
そのまんまと言えなくもない。

内向的で鬱屈していて変な万能感を持ちながら周りに認められず苛つく、
アムロ・レイと対照的なのは、自分を好きになれるかもしれない、
と騒ぐ、あのTV版の最終階のシーンだろう。
残念ながらそこは多くのファンからは否定され、
鬱屈したまま超人的な力を手に入れていく「少年マンガパターン」へ
流れを変えつつあるわけだが
映画版が出る度にネジ曲がっていく方向は、
監督の、
少女マンガ的方向性への恣意的な傾倒と
少年マンガ的方向性への外圧に屈する形の苦渋の選択、
なんて見ると、また違った趣がありそうだ。


まぁ話を一気にまとめてしまうと、
男は少年マンガが好きであり、
女は少女マンガに共感するのであり、
それは生まれ持った遺伝子的な事由に拠るのかもしれないな、と、
まぁそんな風に思ったのでした。