消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

ちっぽけな本屋 ③

 大学で得たばかりの知識をもってその本屋ののれん(新着本の手書きの広告が、のれんさながらに店頭で翻っていた)をくぐる時、
私はそのちっぽけな本屋の蔵書量に圧倒されることがしばしばあった。

色あせた文庫が整然と陳列された様は宝物殿を想像させた。

その頃になって、店主のこだわりがわずかながら見えてきたように思う。

本は著者名、出版社名による分類というよりは思想、分野別に本棚にすえられ、
多少知識がないと目的にたどり着けないことさえあった。

慣れないうちはその配列に辟易し、妙なプライドのためか店主に聞くこともできず敗北感のみを手に立ち去ることもしばしばであったが、
やがてこの配置の巧妙な意図に気がついてくると、見つけた本の右に左に手を伸ばして、興味の対象は限りなく広がってゆき、
これもなかなかうまい商売だと予定の三倍の買い物をしながら思わずにやけてしまうのだった。

実に、こちらの気をそそる形でそれぞれの棚は整理されており、店主の思惑通りか、一人の作家から横への知識展開をさりげなく誘われるのだった。

おかげで私は大学で得たいささか専門性に深すぎる知識の実用性の希薄さを、幅広い円錐のように広げることができたのだった。

 就職を機に別の町へ移り住み、仕事の忙しさを言い訳に実家に寄ることも少なくなり、再び私はその本屋から離れることになった。

数年たてばすっかり新しい町になじみ、気に入った書店もいくつか見つかった。

時代は加速度的にインターネットの需要度を高め、「店頭で買い物をする」という当たり前だった構図が当たり前ではなくなった。

残業が続き買い物に行けない時でも、気になる書物はアパートのドアポストに放り込まれているのだった。

慣れるにしたがって責任と面白味を増す仕事に没頭し、私はいつしか巡り巡った古本巡礼を、思いつきもしなくなっていた。

好きだった物語、歴史小説、思想・哲学書、趣味の文庫たちはやがて本棚の隅、そして押入れへと追いやられ、
けして興がのる文体ではない仕事用の専門書が、不恰好に不ぞろいに本棚を埋めていった。

どうして書体もサイズもこうもとりどりなのだろう、と雑然とする本棚をせめて見栄え良く、と整理することさえしなくなった。