消えかかる記憶の寝言3

渡るつもりなんてなかったのに、人生常々渡り鳥。カトウリュウタの寄港地ブログ。

僕とネコと離婚物語~ 100 %勝利へ~その15

7章「カトウのやったこと」その


午前三時。
日が昇るにはまだ早いし、夜と言うには遅すぎる。
眠れるわけもなく起き上がりました。妻も居間で起きていました。


「……今何を考えているの?」
「別に」
「俺はもう耐えられない。キミはどうするの?」
「……」
「……」

沈黙は相対性理論の主観性に基づいて、実際時間とまるで異なる主観的時間を流れます。
時計の針に比べて、私が感じた空間はあまりにも長くて重い時間でした。

「……別れようと思う」
妻が言いました。
一週間。
一週間すら我慢できないのか、と思いました。なんとくだらない。
けれども問題は一週間なんて時間じゃなかったのでしょう。
四年間という夫婦生活か、
あるいは五十年という今後の人生か。


何もわかりません。ただ私はがっかりしました。
探偵の調査資料が作成完了し届くまで、
あと一週間の時間が必要だったからです。
いやいや、そんなことではなく
結婚記念日が何の抑止力にもならなかったからです。


「そうか。そうかそうか。じゃあこれを読んでくれ」
私は時間をかけて推敲した文章を、テーブルに重苦しく広げました。
これが最後通牒でした。
文章の冒頭にはわたしの名前と妻の名前、
そして本来知るはずのない不倫相手の名前が明確にくっきりと印字されていました。

それは妻の不貞の証拠をすべて掴んでいるというはっきりした「宣言」でした。
(証拠はまだ届いてませんでしたが、それももはや問題ではありません)。
ただ重たいナタのように、プリントアウトされた紙が二人の間を断ち切ったのです。
……なんか叙情的すぎる表現だな、自分。



その文書は
妻の居ない退屈な週末に何度も書き直しじっくり構想した文章でした。
内容の概略を記載します。

・夫は妻と不倫相手の関係を許容する
・その関係にたいする夫の感情の慰謝料として月に●万円の支払いを請求する
・妻の関係に口を出さないことと同様、夫の今後の人間関係に感知、追求しないことを約束する



簡単に言えばこれは「妾契約」というものでした。
自分の妻を金銭の授受をもって売春させるというものです。
この時の私はまだ全く知りもしなかったのですが、
この私の提案は「公序良俗に反する」提言として
一切の効力がないどころか訴えられかねない危険な提案だったのでした。
しかしその時の私はひょうたんから駒のようなこのアイデアに有頂天になったものでした。


思い出してもらえるでしょうか。
私の今回のプロジェクトの目的は
「みんなが笑顔で終わる」でした。
そのために法律的知識皆無の私が知恵を振り絞り発熱するほど悩んでだした結論が
この「妾契約」だったのです(もちろんこの時の私に「妾」なんて言葉思いもよりません)。


私は、その文書の中にも記載したのですが
浮気や不倫は止む得ないものとして受け入れる覚悟がありました。
それは男らしさや度量の広さなどではありません。単なる敗北者でした。

私はジョニー・デップでもなければ向井理でもありません。
とどのつまり、この世界で最高の男、ではない、ということです。
世界レベルまで広げることはない、日本国内でもランキング的には消して上とは言えないでしょう。


これまでも妻が火遊び程度の浮気をしていたことはうっすら知っていました。
(今回携帯メールを盗み見ることで、その過去まで知る羽目にさえなりました)。
しかし、少なくともこれまでのケースに関しては、妻は私のもとに戻ってきました。
バカバカしく聞こえるかも知れませんが、それはつまり私が勝った証左そのものでした。
私の方が良い、と単純に判断した妻は、火遊びから目覚めた翌日、
私のところへ帰ってきて私の良さを再認識していたのです。

群れがあってボス猿がいます。
ボス猿と認められる存在だけが頂点に立てるのです。


妻は私を最高のオスと判断し、尊敬と敬愛をもって私に付き従いました。
それは私にとって区役所に受理された婚姻届という紙切れよりも
はるかに重要なステータスでした。

そしてそのステータスを超えるオスが現れたときに、
ドラクエ同様完膚なきまでに負けることも分かってました。
そもそもそれを意識していたからこそ、私は区役所に紙切れを提出していたのです。

サル山の猿であったら、負ければそれまで。地位を追い落とされ山を下るだけです。
しかし人間社会には(実際下らないシステムだとは思いますが)
それをカバーしてくれる「結婚」という制度があります。少なくとも日本には。
このシステムに登録しておけば、あら不思議、
ステータスで負けても顔で負けても甲斐性で負けても、妻の夫で有り続けられるのです。
国家という強大な権力構造の庇護のもと。


仮にジョニー・デップが(あるいは向井理が)
私の妻を気に入って口説いて入籍しようとしても、
誰がどう見てもソッチの方がいい男であり条件まで申し分ないとしても、
国家法律のシステムに守られた私は負けを認めないことが出来るのです。
「イヤだ」と言えばそれで妻を手元に置き続けることができるのです。
なかなかありがたい弱者救済システムです。


私はこれまで、サル山の勝利者として君臨していました。
しかし今回負けました。
そこで提案したのが
「負けを認めるけれども、俺もこのまま山の頂点で暮らしたい」
という内容でした。


卑屈な内容と言えるでしょうか。
まぁそうでしょう。今思い返すとなかなか痛々しい提案です。
けれども当時の私にとっては、
ちょっと信じられないほど素晴らしい解決案に感じられていました。
まさに大岡裁き三方一両損


男女が、たった一人の相手と添い遂げるべし、という
キリスト教だか儒教だかの概念先行のくだらない理想は
意味があるものとは私の中で到底思えませんでした。
より良いものがあったらそちらへ移るべきなのです。
それが一番人間らしい、というか生物らしい。
「婚姻届をだしたから」
などという理由でその本来的な動性を無理やりねじ伏せる方が
圧倒的に不自然で不健全です。
結局それは、「先に取ったもん勝ち」という、
およそ平等とは言えない、自然とは思えない
不自然な現実を作るだけ。それが「結婚」なのです。


ですから私は文章の中で(悔しくもありましたが)結婚という不自然さを認め、
しかしおこぼれでもいいから妻のそばにいたい、と提案したのです。
なんて卑屈で惨めな発言でしょう。
ここまで人間がへりくだれるものなんでしょうか。痛々しくて書いてて辛い。
しかし私に他に取るべき道があったのでしょうか?
不倫相手に完敗しながらも、妻と一緒に居たかったのです。
サル山の頂上でなくとも、麓にいたかったのです。



「正解が必ずあるとは限らない」
またネコが横からちゃちゃを入れてきました。
「ハッピーエンドが約束されているのは、ゲームか映画だけなのよ」
パソコンの前に陣取って大変邪魔なネコです。おまけに知ったようなことを言う。
処女のくせに。

「そして人生は往々にして、思い通りにいかないものなのよ」
ネコが達観して言うのでした。

(つづく)